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2024

2024

境川ベースライン遡行

Fieldwork 相模野 5

 

JR横浜線相原駅より古淵駅までの直線7~8km間には過去には武蔵国と相模国の、現在では相模原市と町田市との境界である境川に沿って養蚕信仰地がかなり点在している。

 

これらを北斗七星のように結んだ相模野北端のいわゆる「絹の道」、戦車道路(尾根緑道)、JR横浜線、国道16号、以上の境川に並走する四線を「境川ベースライン」と名付けることにする。

 

これは2024年3月に2日間かけて養蚕関連地を中心に「境川ベースライン」の線上をフィールドワークした記録である。

 

フィールドワークのコースは文章末尾の画像のとおりである。

 

【1日目】

 

(1) JR横浜線淵野辺駅

 

(2) 新田稲荷神社内「呼ばわり山」

 

境内北側の「呼ばわり山」という小高い丘の上に今熊神社がある。

現在はビルやマンションなども建ち周囲に完全に埋もれた山だが、戦後あたりまでは桑畑が拡がる平地だったこの一帯で行方不明者が出た時、丘の上から鐘や太鼓をたたいて呼ぶと必ず見つかったという民間信仰の史跡だ。

 

2005年に相模原市内にある宇宙航空研究開発機構(JAXA)のプロジェクトマネージャー川口淳一郎教授が、当時行方不明だった小惑星探査機「はやぶさ」(初代)の発見を祈願してこの「呼ばわり山」に何度も立ち寄ったそうだ。

 

近隣に高い建物はいくらでもあるにもかかわらずこの場所が選ばれ、

そして「呼ばわり」の方向が水平から垂直に更新され、

しかもそれが宇宙工学者から科学技術の結晶である小惑星探査機へのものだったという事実は、

ある種の日本人の心性が反映されているようで興味深い。

 

また「はやぶさ」には直径40cm、重量16kgの「地球帰還(再突入)カプセル」が搭載されていた。

小惑星表面から採集したサンプルを大気圏再突入から保護し地球に持ち帰るための装置だ。

これはあえて飛躍的に解釈すれば地球外という「異界」の物質を現世に召喚する器である。

 

つまりそれには瓢箪、虚繭(漆原友紀『蟲師』より)など、怪異が棲み着いたりして異界へとつながる空洞球形容器との類似点がある。

 

そして何より蚕神である金色姫が古代インドから常陸国に漂着した際に乗っていたUFOのようなものとも形容される「うつろ舟」と、形状だけでなく地球外を飛行可能であるという二重の類似点があり、養蚕信仰との想像的なつながりが見出せる。

 

実際にJAXAのウェブサイト掲載の「地球帰還カプセル」の形状はUFOのイメージそのものである。

 

(3) 皇武神社内「蚕守神大神石碑」

 

とぐろを巻いた蛇が御神体の蚕守神大神を境内の隅に祀っており、明治頃から始まった「おきぬさま信仰」の発祥の地でもある。

 

「おきぬさま信仰」は氏子の家の養蚕の繁忙期に手伝いに現れた神主の娘が、

仕事が片付くと白蛇の姿に変わり神社の拝殿に消えてしまったという養蚕信仰民話のひとつだ。

 

(4) 箭幹(やがら)八幡宮内「蚕影神社」

 

側面に桑の葉の柄が彫り込んである。

この周辺の蚕影神社は養蚕業の現状の反映か境内の片隅にひっそりと鎮座している場合がとても多い。

 

(5) 常盤日枝神社・持宝院境内「蚕影神社」

 

(6) 御嶽神社境内「蚕影神社」

 

(7) 中村不動尊内「馬鳴菩薩石碑」

 

天竺の高僧であった「馬鳴菩薩」は豊蚕信仰独自の仏教由来の蚕神で、貧しい人々に衣服を施すという伝承から信仰が広まった。

 

たまたま養蚕業者に縁起の良いエピソードを持つ仏様がいたから信仰対象になったということだろうか。

仏像は顔面が一つ、腕が六本で養蚕関連の道具を持ち、白馬に乗る姿だ。

 

また同じく馬の蚕神という点で「馬と娘が婚姻して蚕に化身し人間に幸福をもたらす」という話は、中国の東晋の歴史家である干宝の『捜神記』巻十四や、柳田国男『遠野物語』「六九 神の始、家の神 - オシラサマ」など多くの伝承がある。

 

口承の民話によくあることだが細部が異なったり多くのバリエーションがある。

しかし基本的に物語は以下のような3段階構成となっている。

 

・とある娘が馬と婚約するが、それに怒った父親が馬を殺す。

・殺された馬の皮が娘を包み込むなどして同化/変態する。

・空の彼方へ飛んでいくなどして居なくなる。

 

これは幼体→繭(蛹)→成体という蚕の変態の過程と重なっている。

また沢辺満智子『養蚕と蚕神 ー近代産業に息づく民俗的想像力』に記述されているように、養蚕業従事者が自らの心を防衛するために(金色姫伝説などの)キャラクターと物語性を導入する事象とも共通点が見出せる。

 

(8) 米軍相模総合補給廠南北道路

 

(9) JR横浜線相模原駅

 

(10) JR横浜線矢部駅

 

(11) 村富神社「龍神道祖神」「蚕影神社」

 

境内北の道路側に削石の龍神道祖神が鎮座している。

もともと相模野は「土地は高燥で地味はやせており、もとは水利の便も悪く、農耕を営むにも居住するにもきわめて工合のよくない土地柄」 (※) のため龍神講という農業神信仰が盛んであり、雨乞いとして龍を祀っていた。

そんな土地柄もあってかこの道祖神は養蚕業に従事していた守屋今五郎によって大正時代に再建された。

 

一方、矢部の東隣りである淵野辺には竜像寺をはじめ室町時代初期の地頭・淵野辺義博に関する史跡がいくつもある。

 

淵野辺義博については暦応年間(1338〜1342)に竜像寺東の境川沿いにあったとされる「竜池」に住んでおり人畜に害を及ぼしていたという大蛇を退治したという伝説が残っている。

 

この大蛇退治の伝説は境川の護岸工事の隠喩だと推測できる。

おそらく池の名前にもあるとおりこの大蛇は嵐を呼び河川を氾濫させる龍のことであり、

「おきぬさま」のような蚕神の蛇とは別物と考えていいだろう。

 

境川近くの淵野辺では龍(大蛇)を退治する逸話が残り、

そこからわずか2km程離れた矢部では逆に雨乞いで龍を祀っていた。

これらから戦後〜高度成長期に郊外化する以前の相模野はずいぶん水に苦しめらた土地だったと推測できる。

 

【2日目】

 

(12) 京王相模原線多摩境駅

 

多摩境駅周辺は多摩ニュータウンの比較的新しく作られた地域だ。

1997年に整備され中央に星野敦《地球断面 ー森のスポットー》が設置された駅西口ロータリーは「神殿シミュラークル」とでも形容できそうな空間が広がる。

多摩センター駅前の「パルテノン多摩」とともに、80〜90年代の終末思想世界観のサブカルの匂いというか、やや厨二病的な感性を感じる(『風の谷のナウシカ』の腐海の底、『聖闘士星矢』など)。

そんな建築が実現したのは良くも悪くも余裕と豊かさの産物だろう。

 

(13) 浜街道陸橋、浜見場

 

八王子 - 横浜間の「絹の道」=「浜街道」を通った人々が遠方の横浜を望み見た丘陵地だ。

現在は八王子市と町田市の境となっている全長約8kmの「尾根緑道」の西端の小山内裏公園内にあたる。

 

この道は第二次世界大戦時には相模陸軍造兵廠で造られた戦車を試走する通称「戦車道路」だった。

 

(※戦車道路についての記録は「戦車道路 Fieldwork 相模野 2」に詳細を記載)

 

(14) 札次神社境内「蚕種石」

 

戦国時代の弘治年間(1555〜1557)、常陸国行方郡島崎村から流れてきて現在の町田市小山町三ツ目に土着した武将・島崎氏が持ってきたと伝えられる石だ。

当時は現在の尾根緑道に石を祀って武運長久と子孫繁栄を祈願したと言われる。

 

常陸国といえば蚕神である金色姫がインドから漂着したという伝承がある土地だ。

由来を求めて潜行すれば、郊外の片隅に鎮座した石から常陸を経て古代インドまで遡行することができる。

 

相原の蚕種石とはまた異なり、子に恵まれない女性がこの石に祈願すると子種を授かるという俗信があった。

そのご利益かは分からないが、現在でも小山町三ツ目では島崎姓がとても多い。

 

(15) 宮下自治会館内「蚕影神社」

 

(16) 二十三夜堂、蓬莱橋

 

旧暦23日の前日から橋の下の境川で身を清め、仲間が集まり勤行、飲食をともにして23日の夜の月を待つという信仰行事が行われていた場所だ。

 

「橋のたもとの神様」の「橋(はし)」がなまって「あし」となり、いつしか足の病気に悩む人々が願かけに訪れるようになったようだ。

 

私が現地を訪れた際にたまたま居合わせた地元の方らしき男女2人連れ(70代?)が御賽銭二十三円を奉納していった。

 

「現代人がスマホを見る時間=昔の人が神仏に祈る時間」と仮定すると、

YouTubeの投げ銭で配信者に優先的にコメントを届けることは神仏に賽銭を投げて願かけをすることと現象として重なる。

一時的に現世から浄土へと時空を超越して(super)話(chat)を仏様に聴いてもらう通話料というわけだ。

 

(17)  JR横浜線橋本駅

 

【参考・引用】

 

▪ 伊藤智夫『ものと人間の文化史 68 - Ⅰ・絹 Ⅰ』(1992 法政大学出版局)

▪ 伊藤智夫『ものと人間の文化史 68 - Ⅱ・絹 Ⅱ』(1992 法政大学出版局)

▪ 座間美都治(著・発行)『相模原民話伝説集 改訂増補』(1978)

▪ 座間美都治(著・発行)『相模原の史跡』(1976)

(11)村富神社(※) …P.30

▪ シルク民俗研究会 カイコローグ

境川と蚕神(1)蚕種石・蚕影神社

http://www.kaikologs.org/archives/1847

▪ シルク民俗研究会 カイコローグ

「境川と蚕神(2)蚕影神社・オキヌサマ」

http://www.kaikologs.org/archives/1861

▪ タウンニュース さがみはら中央区版

「呼ばわり山 今熊神社 はやぶさ帰還『願掛けの地』」(2012年9月13日)

https://www.townnews.co.jp/0301/2012/09/13/157174.html

▪ JAXA小惑星探査機「はやぶさ」物語

「はやぶさとは」

https://spaceinfo.jaxa.jp/hayabusa/about/apparatus.html

「写真」

https://spaceinfo.jaxa.jp/hayabusa/photo/satellite12.html

▪ 漆原友紀『蟲師』「虚繭取り」(2003 講談社)

▪ つちのえ会(編集)『さがみはら 石仏夜話』(1978 相模原郷土懇話会)

▪ 畑中章宏『蚕 ー絹糸を吐く虫と日本人』(2015 晶文社)

 

▪ 柳田国男『遠野物語』 「六九 神の始、家の神 - オシラサマ」(1910)

https://www.koten.net/tono/yaku/069/

 

▪ 町田市文化財保護審議会(編集)『町田の民話と伝承 第一集』(1997 町田市教育委員会)

▪ 街道歩き旅「浜街道(絹の道)1」

https://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/hama/hama1.html

▪ UOKAZUの日記「浜街道(絹の道)の浜見場を確認できました」

https://uokazu.exblog.jp/9989811/

▪ UOKAZUの日記「八王子市柚木(旧柚木村)の養蚕信仰と和讃」

https://uokazu.exblog.jp/9823696/

▪ のり子「日本に蚕の伝わった日ーー馬娘婚姻譚」

https://note.com/norko/n/na51bd1e53022

(2024年12月)

Fieldwork Sagamino (相模野) 5

心の生存戦略としてのキャラクターと物語性の導入

 

沢辺満智子『養蚕と蚕神 ー近代産業に息づく民俗的想像力』(2020  慶應義塾大学出版会)における金色姫伝説の考察が興味深い。

それについて近年の個人的なリサーチ・フィールドワークと制作に引きつけてテキストを書いた。

 

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金色姫伝説は明治期以降政府から弾圧を受けながらも養蚕業に携わっていた民衆(特に女性)に広く伝播し深く根付いていた民俗信仰である。

 

一部の地方の養蚕農家の女性たちは蚕を「おこさま(御蚕様)」と呼ぶほど小さな子どもに対するように付きっきりで世話をした。

 

特に大正期頃までの養蚕農家の屋内では蚕が孵化し四度脱皮し繭を作り蛹となるまでの約40日間は、むしろ人間が蚕のために従属すると言ってもよいほどの具体的な身体接触(養蚕農家の女性は蚕種を自らの身体に巻きつけその温度や湿度を利用して孵化させた)、皮膚を媒介とした適切な室内温湿度の共有、蚕が桑の葉を喰む音や糸を吐き繭を作る音などを通じての、五感の総動員といってよいほどの蜜月関係期間だったと想像できる。

 

「『奥の間に引き込んで仕事をした。子供さえ近よらせなかったので本当に嫁としては気楽な時間だった。』

…そうした営為が農家の女性の極めてプライベートな空間と時間を費やされながら行われていることがわかる。」(P.203)

 

農家の奥の間(密室)での女性と蚕によるこの時空間は民話や伝承を想起させる。

蚕は鶴や蛇や熊のように人間に近くてキャラが立っていた生物だったと想像できる。

それは民衆に対してもであり、1871年(明治4)の宮中養蚕の開始に象徴されるとおり皇室や国家イデオロギーに対してもであった。

 

また「おこさま」という名称から蚕種石(子種石)という養蚕信仰で祀られる丸石の名称にも納得がいく。

さらに葬式に列席した者は蚕室に入ってはいけない、入る場合必ず塩で清めなくてはならないという禁忌すらあったそうだ。

蚕はまさに「子ども」で死から遠ざけるべき対象だった。成虫モスラや歴代小美人の衣装にわりと魔除けの赤色の比率が多いのも納得できる。

 

著作内ではそんな時空間での女性たちと蚕の蜜月を「人間の心を身体を介して蚕の感覚へと拡張すること(民俗的想像力)」と定義している(P.280 - 281)。

まさに異種間シンクロ状態だ。

 

さらに(主に男性たちによる)蚕品種を開発する遺伝学の研究と成果、大正期以降の統一品種の大量生産と全国配布、年に一度だった養蚕が三回、四回と可能になったことなどによって、養蚕業の女性たちはますます蚕に身体を拘束されていった。近代化がシンクロ率をむしろ高めていったのだ。

 

しかしいずれにしても最後には手塩にかけて育てた「おこさま」を生活のために売らねばならない。繭は熱湯に沈められて蛹は死ぬ。そして生糸が取り出される。

この著書ではそのことによる女性たちの精神的な苦しみや喪失からの切り替わりを負荷なく行うために「金色姫伝説」というキャラクターと物語が必要不可欠だったという仮説が立てられていると私には読めた。

 

柔らかく半透明で人間が世話をしなければ死んでしまう脆い生物である蚕の幼虫は、蛹化するとその繭を振ればカラカラ音をたてるほど固い生物へと変態する。

そんな蚕は養蚕業の女性たちにとって「繭になると一生をまっとうする」と考えられていたようだ。

 

古代インドから漂着した蚕神・金色姫は、その死後柔らかく脆い蚕の幼虫として転生し、故郷で継母に四度殺されかけ生き延びた経緯をなぞるように四度脱皮し、漂着時に自らが乗ってきた「うつろ舟」のような形の繭を作ったのち固い蛹へと変態し、死者の世界へと還っていく。「うつろ舟」とは此岸と彼岸を結ぶ乗り物だ。

その繭(蛹)化という具体的な形態変化によって人間の蚕へのシンクロは終焉する。

 

これは生活のために不可避な生糸を取り出すことによる蚕の死という矛盾を乗り越えるための、

生物の変態とキャラクターと物語の帰結を結びつけた、政府の弾圧も届かないほど個々人に深く浸透した優れた仕組みだといえる。

 

この一連のプロセスは養蚕業に携わる女性たちが自らの心を守るためのある種のサバイバル術だ。

そしてこれは現代の社会で生きる私たちがアニメやマンガやゲームなどのキャラクターや物語を通して広く各々が多くの場面で行なっている、

たとえば好きなキャラクターのちょっとしたグッズを常に身につけてお守りとしたり、

推しを見つけてのめり込む(ある意味シンクロする)ことでクソな現実から心を防衛することなどと根源的には同じだと感じる。

(2024年10月)

 

 

 

Introducing Character and Narrative as a Survival Strategy for the Mind

 

I find the consideration of the "Legend of Konjikihime (Golden Princess)" in Machiko Sawabe's "Sericulture and Silkworm Goddesses : The Folk Imagination in Modern Industry" (2020 Keio University Press) interesting.

I wrote a text about it, drawing on my personal research, fieldwork and works in recent years.

 

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The legend of Konjikihime is a folk belief that was widely spread and deeply rooted among the people (especially women) who were engaged in sericulture despite government suppression since the Meiji period.

 

The women of sericulture farms in some regions called the silkworms "Okosama" (calling with affection for the child)

and took care of them as if they were small children.

 

n particular, until around the Taisho period (1912-1926), the silkworms hatched, molted four times, made cocoons, and pupated for about 40 days, during which time humans were rather subservient to the silkworms.

 

For example, sericulture women made specific physical contact with silkworms by wrapping the silkworm seed around their own bodies and using the temperature and humidity to incubate them.

 

In addition, the women shared the appropriate indoor temperature and humidity with the silkworms through the medium of their skin, and the sounds of the silkworms eating mulberry leaves, spitting out thread, and making cocoons can be imagined as a period of a honeymoon relationship that mobilized all of the five senses.

 

" 'I shut myself away in the back room and worked. I didn't even let the kids near me, so it really was a carefree time for me as a wife.'

 ... I can see that such activities took place in the very private space and time of the farm women." (P.203)

 

This space-time of women and silkworms in the back room of a farmhouse (a closed room) evokes folk tales and traditions.

 

It can be imagined that the silkworm was a creature with a character close to that of humans, like cranes, snakes, and bears.

 This was true for the people as well as for the imperial family and national ideology, as symbolized by the start of silkworm cultivation at the palace in 1871.

 

The name "Okosama" (calling with affection for the child) also explains the name of a round stone enshrined in the cult of sericulture, the silkworm seed stone (Kodaneishi).

 

 Furthermore, it is said that those who attended the funeral were forbidden to enter the silkworm room, and if they did, they were required to purify themselves with salt.

 

Silkworms were truly "children," objects to be kept away from death.

 It is also understandable why the costumes of adult Mothra and other Shobijin (Small Beauties) of the past have a rather high proportion of red to ward off evil.

 

In her writings, she defines the honeymoon between women and silkworms in such a time and space as "the extension of the human mind through the body to the silkworm's senses (Folk Imagination)" (P. 280 - 281).

 It is truly a state of interspecies synchronization.

 

In addition, the research and results of genetics to develop silkworm varieties (mainly by men), the mass production and nationwide distribution of unified varieties from the Taisho period onward, and the fact that sericulture was now possible three or four times a year instead of once, made the women in the sericulture industry increasingly physically restrained by the silkworms.

Modernization rather increased the rate of women's synchronization.

 

But in any case, at the end of the day, "Okosama," which they have raised with care, must be sold for a living. The cocoons are submerged in boiling water and the pupae die. Then the raw silk is extracted.

 

I read the book as hypothesizing that the character and story of the "Legend of Konjikihime (Golden Princess)" was essential for the women to switch from the emotional suffering and loss caused by this without overload.

 

The larva of the silkworm, a soft, translucent, fragile creature that will die if not cared for by humans, metamorphoses into a hard organism that makes a rattling sound when it shakes its cocoon after pupation.

Such silkworms were considered by women in the sericulture industry to "live out their lives when they become cocoons."

 

After her death, Konjikihime, the silkworm goddess who drifted ashore from ancient India  reincarnates as a fragile silkworm larva and molts four times, tracing the story of how she was nearly killed four times by her stepmother in her homeland and survived.

 

Then she creates a cocoon in the shape of the "Utsurobune" she was on when she drifted ashore, metamorphoses into a hard chrysalis, and returns to the world of the dead. "Utsurobune" is a vehicle that connects this shore and the other.

 

The synchronization of human beings with the silkworm ends with the concrete morphological change of its cocooning (pupation).

 

This is a mechanism to overcome the contradiction of the death of silkworms due to the inevitable extraction of raw silk for subsistence.

 It is an excellent link between the metamorphosis of the organism, the character and the consequences of the story, which penetrate so deeply into the individual that even government repression cannot reach them.

 

This whole process is a kind of survival technique for women in the sericulture industry to protect their own hearts and minds.

 

And this technique is what we are doing in today's society through anime, manga, video or mobile or social network games, and other characters and stories.

 

For example, we always wear a little item of our favorite character as a talisman,

 I feel that it is fundamentally the same as defending one's mind from shitty reality by finding a favorite character and becoming absorbed in it (in a sense, synchronizing with it).

(October 2024)

穹窿航路 - 蚕神、彼の地より来訪し桑海を渡り帰還す -

古代インドより日本に流れてきたとされる蚕神・金色姫。

 

漂着した常陸の海岸の蚕養神社と筑波の蚕影山神社(養蚕信仰の中心地)を結び、

近代日本の養蚕業において形作られた絹の道、

そして現代の交通路を合わせて、

近代日本においての重要産業だった養蚕に関するものたち(金色姫とその分身ともいえる蚕や生糸)の来訪と帰還の経路を、現代の関東平野において想像的に仮設する。

 

そしてその経路の痕跡(信仰地等)を作家が追体験として辿り、各地の取材を元に絵画を制作する。

 

経路は以下となる。

 

常陸(蚕養神社) →筑波(蚕影山神社)→関東諸地域(※今回の展示では圏央道と仮定)→八王子(桑都)→絹の道→相模野→横浜

 

観客は展示空間に関東平野を大きく円を描いて横切る「航路」を幻視する。

(2024年9月 個展「穹窿航路 - 蚕神、彼の地より来訪し桑海を渡り帰還す -」ステートメント)

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The Arc Voyage - Silkworm Goddess, Coming from Her Land, Crosses Mulberry Sea and Return -

 

Legend has it that the silkworm goddess, Konjikihime (Golden Princess), drifted to Japan from ancient India.

 

She is said to have drifted ashore, connecting the  Kogai (Rearing a Shilkworm) Shrine on the coast of Hitachi and the Kokagesan (Silkworm Shadow Mountain) Shrine in Tsukuba (the center of sericulture beliefs),

The silk road that took shape in the sericulture industry of modern Japan,

and the modern transportation routes,

The paths of arrival and return of those related to sericulture, an important industry in modern Japan, such as the metaphysical being “Konjikihime” and her alter egos, the silkworms and silk products,
The paths of their arrival and return are imaginatively linked in the present-day Kanto Plain.

 

I will trace the traces of these routes (places of worship, etc.) and create paintings based on research in various locations.

 

The route is as follows

Hitachi (Kogai Shrine) → Tsukuba (Kokagesan Shrine) → Kanto area (*assumed to be the Ken-O Expressway in this exhibition) → Hachioji (City of Mulberry) → Silk Road → Sagamino → Yokohama

 

The viewer sees in the exhibition space a “route” that crosses the Kanto Plain in a large circle.

(September 2024, Solo exhibition "The Arc Voyage - Silkworm Goddess, Coming from her Land, Crosses Mulberry Sea and Return -" statement )

The Arc Voyage

1 穹窿航路 - 常陸小貝ヶ浜

 

茨城県日立市川尻町の小貝ヶ浜は古代インドから養蚕の神である金色姫が漂着したという伝説の残る海岸だ。

私はほんの70〜80年前までは養蚕業が盛んであり各地に一面の桑海が広がっていた関東平野を、蚕神金色姫が大きく円孤を描いて古代から近代にかけて時空間を越えて渡った航路を辿ろうと考えた。

私はそれを「穹窿航路」と名付けた。

2 筑波から圏央道、そして桑都へ

 

蚕神金色姫は自らの分身である蚕や生糸や絹となって、さらには人々の間にのみ存在する形而上的な信仰対象へと姿を変えて養蚕信仰の総本山である筑波の蚕影山神社へと向かう。

 

そして筑波から圏央道を走りぬけるように関東平野の桑海を渡り、

近代国家日本の国力を増大するための生糸や絹織物という輸出品として「桑都」八王子へと向かう。

 

3 桑都 八王子

 

横浜開港(1859)以来輸出品として需要が高まり養蚕が重要な産業となった江戸末期から敗戦後頃まで八王子は「桑都」として栄え、

近県から生糸が集まり絹織物が生産される一大拠点だった。

現在でもそこかしこに養蚕信仰地が残っている。

 

そしてそれらの生糸や絹織物は「絹の道」を通って横浜へと運ばれた。

 

4 鑓水

 

現在は東京都八王子市内にある鑓水は「絹の道」の途上にあたる山間の狭い土地だが、江戸末期から明治期前半にかけて生糸で財を成した豪商が数多く現れ、そして没落していった。

さらに1963年と1973年に二件の有名な殺人事件が起こっている。

 

小綺麗な多摩ニュータウンのアスファルトをはがしたらそこには大量の虫ではなく魑魅魍魎が渦を巻いている。

 

5 小島烏水の相模野横断

 

金色姫の穹窿航路に交わる別の道に寄り道をする。

 

登山家であり文芸評論家の小島烏水は1906年に相模野の踏査を行った。

その様子は紀行文『相模野』として翌年に発表された。

 

横浜山王山の自宅を出発し、保土ヶ谷、町田、淵野辺を経由して当麻の無量光寺へ向かった。

明治後期の「郊外の果てへの旅」である。

 

6 戦車道路、幻の鉄道、そして境川

 

穹窿航路に交わる道は他にもある。

 

まず西は鑓水から東は相模原市下小山田までの多摩丘陵の尾根を走る、太平洋戦争中に戦車の試走のために使われた「戦車道路」だ。

 

また鶴川から淵野辺を経て上溝へと至る、大正期から戦後にかけて何度も立ち上がっては頓挫した幻の鉄道路線だ。

 

そして「絹の道」と並走する区間の境川沿いには多くの養蚕信仰地が存在する。

 

7 横浜 八王子鼻

 

航路は横浜で終わり、金色姫は海へと還る。

 

横浜本牧の三溪園の近くに八王子と名前を同じくする一帯がある。八王子道路や八王子権現社、そして八王子鼻(岬)だ。

 

京浜工業地帯と寂れた漁村の面影も少し残る市街地があるこの場所は、

戦後急激に産業として衰退し同時に信仰者も激減し人々の中での存在感が限りなく透明に近くになった神様が長い航路を渡って辿り着いた土地としては相応しいと感じる。

 

(2024年9月 会場内に展示しているキャプションより)

1  The Arc Voyage - Kogaigahama Coast, Hitachi

 

 Kogaigahama Coast in Kawajiri-cho, Hitachi City, Ibaraki Prefecture, Japan is a coast where legend has it that Konjikihime, the silkworm goddess, drifted ashore from ancient India.

 

I thought of tracing the route that the silkworm goddess Konjikohime crossed across space and time from ancient to modern times, drawing a large circle around the Kanto Plain, which until just 70 to 80 years ago was home to a thriving sericulture industry and a sea of mulberry trees in various parts of the Kanto region.

 

 I named it "The Arc Voyage".

 

2  From Tsukuba to the Ken-O Expressway and to City of Mulberry

 

 The silkworm goddess Konjikihime transformed herself into her alter ego, silkworm, raw silk and silk, and further into a metaphysical object of faith that exists only among the people, and went to Tsukuba's Kokagesan Shrine, the head temple of the sericultural faith.

 

Then, from Tsukuba, they cross the Mulberry Sea in the Kanto Plain as if they were driving through the Ken-O Expressway.

 After that, they goes to Hachioji, the "City of Mulberry", as exports of raw silk and silk fabrics to increase the national power of Japan as a modern nation.

 

3  Hachioji, the Mulberry Capital

 

 From the end of the Edo period when demand for silkworms increased as an export since the opening of the port of Yokohama (1859) and sericulture became an important industry, until after the defeat in World War II, Hachioji flourished as a "city of mulberry" and was a major center of silk production, gathering raw silk from neighboring prefectures.

 

 Even today, there are still places of worship for sericulture here and there.

 

 Raw silk and silk fabrics were transported to Yokohama via the "Silk Road".

 

4  Yarimizu

 

 Yarimizu, now located in Hachioji City, Tokyo, is a narrow mountainous area on the way to "Silk Road". From the late Edo period to the early Meiji period, many wealthy merchants who made their fortune through raw silk appeared and fell.

 

 In addition, two famous murders occured in 1963 and 1973.

 

 If you peel away the asphalt in the neat little Tama New Town, you will find not a large number of insects but evil spirits and grudges swirling around.

 

5  Kojima Usui's Sagamino Crossing

 

 A side trip to another road that intersects "The Arc Voyage" of the Konjikihime.

 

 Kojima Usui, a mountaineer and literary critic, conducted an survey of Sagamino Plain in 1906.

 His report was published the following year in the travelogue "Sagamino".

 

 He left his home in Sannozan, Yokohama, and headed for Muryokoji Temple in Taima via Hodogaya, Machida, and Fuchinobe.

 It was a "journey to the end of the suburbs" in the late Meiji period.

 

6  Tank Road, Phantom Railroad, and the Sakaigawa River

 

 There are other roads that intersect with "The Arc Voyage".

 

 The first is the "Tank Road", which runs along the ridge of the Tama Hills from Yarimizu in the west to Shimo-Oyamada in Sagamihara City in the east, and was used for trial runs of tanks during the Pacific War.

 

 Also it is a "Phantom Railroad" line that was started and abandoned several times from the Taisho Period to the postwar period, running from Tsurukawa to Kamimizo via Fuchinobe.

 

 And along the Sakaimigawa River, which runs parallel to the "Silk Road," there are many places of worship for sericulture.

 

7  Yokohama, Hachioji Cape

 

 The voyage ends in Yokohama, and Konjikihime returns to the sea.

 

 Near Sankeien Garden in Honmoku, Yokohama, there is an area that shares a name with Hachioji.

The Hachioji Road, Hachioji Gongen Shrine, and Hachioji Hana (cape).

 

 This is a place where the Keihin Industrial  Area and the urban area with a few traces of a desolate fishing village remain.

 The land is suitable as a place where Goddess, whose presence among the people has become almost invisible due to the rapid decline of industry after the war and the drastic decrease in the number of believers, has crossed a long voyage to arrive here.

 

(September 2024, From the captions displayed in the exhibition room)

Fieldwork 常陸 - 横浜

関東平野にて、蚕神の往還した航路を辿る

Fieldwork 常陸 - 横浜

【常陸】

 

2024年6月、私は茨城県日立市川尻町の小貝ヶ浜を訪れた。

古代インドから養蚕の神である金色姫が漂着したという伝説の残る海岸である。

 

金色姫は古代インドにおいて継母に疎まれて4度殺されかけながらその度に生き残り、「うつろ舟」という舟(空飛ぶ円盤をそのまま潜水艦にしたような形ともいわれる)に乗せられ日本に流されてきたという。

 

また先にも挙げたが金色姫は蚕の神として古代より信仰されており、漂着地である茨城県には金色姫伝説にまつわる常陸国の三蚕神社が存在する。

漂着地である常陸の小貝ヶ浜にある蚕養神社、

古代より養蚕信仰の拠点である筑波の蚕影山神社、

そして神栖の蚕霊神社だ。

 

金色姫伝説は縄文末期の稲作伝来の時期、または弥生中期頃の養蚕伝来とともに伝わったという説もあるが詳細は明らかではない。

 

また下記などに金色姫伝説と類似した内容の説話が記述されている。

 

・『戒言』(かいこ)…16世紀半ば 室町時代の御伽草子

・『庭訓往来抄』…1631年(寛永8)の江戸初期の注釈本

・『養蚕秘録』…1802年(享和2)の養蚕全般に亘る教書

 

もともと蚕神としての金色姫とうつろ舟は別々のものだったのだが、江戸時代後期に曲亭馬琴が『兎園小説』のなかの「うつろ舟の蛮女」でそれらを創作物として結びつけた。

発起点からしてフィクションと不可分である。

 

またそんな金色姫伝説にインスパイアされた澁澤龍彥の晩年の作品に『うつろ舟』という短編がある。

東アジアを舞台に宇宙空間と海洋と河川と便所を流動する水や体液を仏教用語と重ねて自在に行き来するという、書いていて自分でも訳が分からないが本当にそのような話だ。

 

また金色姫伝説以外もだが、基本的に民話や伝承の類いとは「何でそんなお話なの?」という問いに対する理論的回答などなく、ただのダジャレとか、カネ儲けしたいという野心とか、皆の愛郷心を増やしてやろうという動機とか、一個人の彗星のような瞬間的インスピレーションなどによる、

先達たちのわりと適当なパッチワーク的創作物だ。

 

そんな有名無名の先達の思考の自在さに倣い、私はほんの70〜80年前までは農家の貴重な現金収入であり人々の生活を支えるという意味で養蚕業が盛んであり、各地に一面の桑海が広がっていた関東平野を、蚕神である金色姫が大きく円孤を描いて古代から近代にかけて時空間を越えて渡った「航路」を辿ろうと考えた。

 

私はそれを「穹窿航路」と名付けた。

 

【横浜】

 

東の海から漂着した金色姫はその亡骸が大量の蚕に変化したといわれている蚕神である。

蚕神は自らの分身である蚕や生糸となって、さらには人々の間にのみ存在する形而上的な信仰対象へと姿を変えて信仰の総本山である筑波の蚕影(山)神社をはじめとする関東平野各地の桑海を渡り、

その後に近代国家日本の国力を増すための生糸や絹織物という輸出品として「桑都」八王子に集まり、さらにそれらは「絹の道」に沿って相模野を抜けて横浜へと辿り着き、再び海へと還っていった。

 

そんな近代日本における重要な輸送路のひとつだった「絹の道」の終点である横浜にはその始点である八王子と地名を同じくする場所がある。

中区本牧周辺の八王子道路や1911年(明治42)に本牧神社に合祀された八王子権現社、そして初代歌川広重が1858年(安政5)に浮世絵《富士三十六景 武蔵本牧のはな》として描いた八王子鼻(鼻は岬という意味)だ。

 

ただしここは名前が同じなだけで「絹の道」とつながっているわけではない。

 

そしてその付近には明治後期から昭和初期にかけて多くの日本画家のパトロンとなった生糸商で蒐集家の原三溪が創設した三溪園がある。

 

その三溪園内の南端の丘の上の根岸湾を望む展望台から八王子鼻にかけての、現在の東京湾岸道路沿いとほぼ重なる崖は、地図を検索すると1950年代半ばまでは海岸線だった。

 

現在埋め立て地となったその崖の先周辺は比較的寂れた海辺の漁村の影も少し残る市街地エリアであり、さらにその先は歩行者を寄せ付けない京浜工業地帯が拡がっている。

三溪園北側のアメリカ坂を登った先のJR山手駅周辺の高級住宅地とは地形の高低差がそのまま風景に反映しているようだ。

ちなみに東京湾岸道路を挟んだ三溪園の反対にあたる埋め立て地側には金色姫が常陸に漂着した場所と同じ豊浦という地名がある。

 

妙な符合が多く見られるものの、この一帯は空間としても時間としても長い航路を渡りきった蚕神が海へと還る地としては、そこかしこに荒れ果てた場末感があり感慨もなにもあったものではない風景だ。

だが戦後急激に産業として衰退し同時に信仰者も激減した、つまり人々の中での存在感が限りなく透明に近くなってしまった神様が辿り着いた土地としては、皮肉や冷笑ではなく率直に相応しいとも感じる。

 

事実常陸の蚕養神社、筑波の蚕影(山)神社をはじめ、八王子や相模野なども含め私が辿って来た航路の途上の養蚕信仰地は、ことごとく忘れ去られたように荒れ果てていた。神の力は人々の信心の総量と比例するのだ。

 

ただ所謂廃墟のようだとはいっても18世紀末から19世紀前半のロマン主義の「崇高」の概念などとは遠く離れてかすりもしない、容赦のない入れ替え可能な郊外風景の中に埋没したそれらを穹窿航路に沿って巡礼することで、

力をほとんど喪ったかに見える蚕神は「風景は視点と視座に依って姿を変える」という私の指針に裏打ちを与えるという思わぬ影響力を及ぼしてくれた。

 

【参考・引用】

 

▪ 澁澤龍彥『うつろ舟』(2022 河出書房新社)

 

▪ 澁澤龍彥『東西不思議物語』「14 ウツボ舟の女のこと」(1982 河出文庫)

 

▪ 畑中章宏『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』(2015  晶文社)

 

▪ 佐藤秀樹『曲亭馬琴『兎円小説』の真偽ーうつろ舟の蛮女と大酒大食の会』(2022 三弥井書店)

 

▪ 『はまれぽ.com』「三溪園近くの『八王子道路』は、どうして『八王子』なの?」

https://hamarepo.com/story.php?page_no=1&story_id=6702

 

▪ 『Alice堂のWEBLOG』「八王子鼻へいってきました」

https://alice.cocolog-nifty.com/alice/2021/10/post-ca00c3.html

(2022年9月)