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2024

2024

穹窿航路 - 蚕神、彼の地より来訪し桑海を渡り帰還す -

古代インドより日本に流れてきたとされる蚕神・金色姫。

 

漂着した常陸の海岸の蚕養神社と筑波の蚕影山神社(養蚕信仰の中心地)を結び、

近代日本の養蚕業において形作られた絹の道、

そして現代の交通路を合わせて、

近代日本においての重要産業だった養蚕に関するものたち(金色姫とその分身ともいえる蚕や生糸)の来訪と帰還の経路を、現代の関東平野において想像的に仮設する。

 

そしてその経路の痕跡(信仰地等)を作家が追体験として辿り、各地の取材を元に絵画を制作する。

 

経路は以下となる。

 

常陸(蚕養神社) →筑波(蚕影山神社)→関東諸地域(※今回の展示では圏央道と仮定)→八王子(桑都)→絹の道→相模野→横浜

 

観客は展示空間に関東平野を大きく円を描いて横切る「航路」を幻視する。

(2024年9月 個展「穹窿航路 - 蚕神、彼の地より来訪し桑海を渡り帰還す -」ステートメント 横浜市民ギャラリーあざみ野 展示室2A)

 

 

The Arc Voyage - Silkworm Goddess, Coming from her Land, Crosses Mulberry Sea and Return -

 

Legend has it that the silkworm goddess, Konjikihime (Golden Princess), drifted to Japan from ancient India.

 

She is said to have drifted ashore, connecting the  Kogai (Rearing a Shilkworm) Shrine on the coast of Hitachi and the Kokagesan (Silkworm Shadow Mountain) Shrine in Tsukuba (the center of sericulture beliefs),

The silk road that took shape in the sericulture industry of modern Japan,

and the modern transportation routes,

The paths of arrival and return of those related to sericulture, an important industry in modern Japan, such as the metaphysical being “Konjikihime” and her alter egos, the silkworms and silk products,
The paths of their arrival and return are imaginatively linked in the present-day Kanto Plain.

 

I will trace the traces of these routes (places of worship, etc.) and create paintings based on research in various locations.

 

The route is as follows

Hitachi (Kogai Shrine) → Tsukuba (Kokagesan Shrine) → Kanto area (*assumed to be the Ken-O Expressway in this exhibition) → Hachioji (City of Mulberry) → Silk Road → Sagamino → Yokohama

 

The viewer sees in the exhibition space a “route” that crosses the Kanto Plain in a large circle.

(September 2024, Solo exhibition "The Arc Voyage - Silkworm Goddess, Coming from her Land, Crosses Mulberry Sea and Return -" statement Yokohama Civic Gallery Azamino Exhibition Room 2A, Kanagawa)

The Arc Voyage
Fieldwork 常陸 - 横浜

関東平野にて、蚕神の往還した航路を辿る

Fieldwork 常陸 - 横浜

【常陸】

 

2024年6月、私は茨城県日立市川尻町の小貝ヶ浜を訪れた。

古代インドから養蚕の神である金色姫が漂着したという伝説の残る海岸である。

 

金色姫は古代インドにおいて継母に疎まれて4度殺されかけながらその度に生き残り、「うつろ舟」という舟(空飛ぶ円盤をそのまま潜水艦にしたような形ともいわれる)に乗せられ日本に流されてきたという。

 

また先にも挙げたが金色姫は蚕の神として古代より信仰されており、漂着地である茨城県には金色姫伝説にまつわる常陸国の三蚕神社が存在する。

漂着地である常陸の小貝ヶ浜にある蚕養神社、

古代より養蚕信仰の拠点である筑波の蚕影山神社、

そして神栖の蚕霊神社だ。

 

金色姫伝説は縄文末期の稲作伝来の時期、または弥生中期頃の養蚕伝来とともに伝わったという説もあるが詳細は明らかではない。

 

また下記などに金色姫伝説と類似した内容の説話が記述されている。

 

・『戒言』(かいこ)…16世紀半ば 室町時代の御伽草子

・『庭訓往来抄』…1631年(寛永8)の江戸初期の注釈本

・『養蚕秘録』…1802年(享和2)の養蚕全般に亘る教書

 

もともと蚕神としての金色姫とうつろ舟は別々のものだったのだが、江戸時代後期に曲亭馬琴が『兎園小説』のなかの「うつろ舟の蛮女」でそれらを創作物として結びつけた。

発起点からしてフィクションと不可分である。

 

またそんな金色姫伝説にインスパイアされた澁澤龍彥の晩年の作品に『うつろ舟』という短編がある。

東アジアを舞台に宇宙空間と海洋と河川と便所を流動する水や体液を仏教用語と重ねて自在に行き来するという、書いていて自分でも訳が分からないが本当にそのような話だ。

 

また金色姫伝説以外もだが、基本的に民話や伝承の類いとは「何でそんなお話なの?」という問いに対する理論的回答などなく、ただのダジャレとか、カネ儲けしたいという野心とか、皆の愛郷心を増やしてやろうという動機とか、一個人の彗星のような瞬間的インスピレーションなどによる、

先達たちのわりと適当なパッチワーク的創作物だ。

 

そんな有名無名の先達の思考の自在さに倣い、私はほんの70〜80年前までは農家の貴重な現金収入であり人々の生活を支えるという意味で養蚕業が盛んであり、各地に一面の桑海が広がっていた関東平野を、蚕神である金色姫が大きく円孤を描いて古代から近代にかけて時空間を越えて渡った「航路」を辿ろうと考えた。

 

私はそれを「穹窿航路」と名付けた。

 

【横浜】

 

東の海から漂着した金色姫はその亡骸が大量の蚕に変化したといわれている蚕神である。

蚕神は自らの分身である蚕や生糸となって、さらには人々の間にのみ存在する形而上的な信仰対象へと姿を変えて信仰の総本山である筑波の蚕影(山)神社をはじめとする関東平野各地の桑海を渡り、

その後に近代国家日本の国力を増すための生糸や絹織物という輸出品として「桑都」八王子に集まり、さらにそれらは「絹の道」に沿って相模野を抜けて横浜へと辿り着き、再び海へと還っていった。

 

そんな近代日本における重要な輸送路のひとつだった「絹の道」の終点である横浜にはその始点である八王子と地名を同じくする場所がある。

中区本牧周辺の八王子道路や1911年(明治42)に本牧神社に合祀された八王子権現社、そして初代歌川広重が1858年(安政5)に浮世絵《富士三十六景 武蔵本牧のはな》として描いた八王子鼻(鼻は岬という意味)だ。

 

ただしここは名前が同じなだけで「絹の道」とつながっているわけではない。

 

そしてその付近には明治後期から昭和初期にかけて多くの日本画家のパトロンとなった生糸商で蒐集家の原三溪が創設した三溪園がある。

 

その三溪園内の南端の丘の上の根岸湾を望む展望台から八王子鼻にかけての、現在の東京湾岸道路沿いとほぼ重なる崖は、地図を検索すると1950年代半ばまでは海岸線だった。

 

現在埋め立て地となったその崖の先周辺は比較的寂れた海辺の漁村の影も少し残る市街地エリアであり、さらにその先は歩行者を寄せ付けない京浜工業地帯が拡がっている。

三溪園北側のアメリカ坂を登った先のJR山手駅周辺の高級住宅地とは地形の高低差がそのまま風景に反映しているようだ。

ちなみに東京湾岸道路を挟んだ三溪園の反対にあたる埋め立て地側には金色姫が常陸に漂着した場所と同じ豊浦という地名がある。

 

妙な符合が多く見られるものの、この一帯は空間としても時間としても長い航路を渡りきった蚕神が海へと還る地としては、そこかしこに荒れ果てた場末感があり感慨もなにもあったものではない風景だ。

だが戦後急激に産業として衰退し同時に信仰者も激減した、つまり人々の中での存在感が限りなく透明に近くなってしまった神様が辿り着いた土地としては、皮肉や冷笑ではなく率直に相応しいとも感じる。

 

事実常陸の蚕養神社、筑波の蚕影(山)神社をはじめ、八王子や相模野なども含め私が辿って来た航路の途上の養蚕信仰地は、ことごとく忘れ去られたように荒れ果てていた。神の力は人々の信心の総量と比例するのだ。

 

ただ所謂廃墟のようだとはいっても18世紀末から19世紀前半のロマン主義の「崇高」の概念などとは遠く離れてかすりもしない、容赦のない入れ替え可能な郊外風景の中に埋没したそれらを穹窿航路に沿って巡礼することで、

力をほとんど喪ったかに見える蚕神は「風景は視点と視座に依って姿を変える」という私の指針に裏打ちを与えるという思わぬ影響力を及ぼしてくれた。

 

【参考・引用】

 

▪ 澁澤龍彥『うつろ舟』(2022 河出書房新社)

 

▪ 澁澤龍彥『東西不思議物語』「14 ウツボ舟の女のこと」(1982 河出文庫)

 

▪ 畑中章宏『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』(2015  晶文社)

 

▪ 佐藤秀樹『曲亭馬琴『兎円小説』の真偽ーうつろ舟の蛮女と大酒大食の会』(2022 三弥井書店)

 

▪ 『はまれぽ.com』「三溪園近くの『八王子道路』は、どうして『八王子』なの?」

https://hamarepo.com/story.php?page_no=1&story_id=6702

 

▪ 『Alice堂のWEBLOG』「八王子鼻へいってきました」

https://alice.cocolog-nifty.com/alice/2021/10/post-ca00c3.html

(2022年9月)

桑都逍遥

Fieldwork 八王子

 

2024年2月に2日間かけて養蚕関連地を中心に桑都八王子をフィールドワークした記録を残す。

 

地理的に八王子中心部は東の日野方面以外は山に囲まれた小さな平地であり、実際に歩いてみると徒歩でもなんとかめぼしい場所を回ることができるくらいのサイズだ。

 

また八王子駅周辺はビルが建ち並ぶ都市の様相だが、そこを離れて特に西の高尾山方面に向かうと土着的な色が濃密な街と感じた。

ちなみにとある多摩応援がコンセプトのラジオ番組で冗談混じりに「多摩地方が県として独立するなら現在の県庁所在地最有力候補は八王子や国分寺や府中ではなく立川だろう」という話を聞いたことがあるが、少なくとも八王子が有力候補に挙がるのも八王子駅周辺を歩くとうなずける。

 

2日にわたるフィールドワークのコースは末尾に掲載してある。

 

【1日目】

 

(1) JR中央線八王子駅

 

(2) 機守神社(大善寺)

 

機神である白滝姫(白滝観音)を祀った神社である。白滝姫は恒武天皇の時代(奈良期末〜平安初期)宮仕えしており、上野国山田郡の男と恋に落ちその故郷である桐生に移り、絹織物の技術を現地の人々に伝えたという。

 

機守神社はもともと八王子中心街の大横町(八王子市夢美術館の北側と浅川の間)にあったが1851年に郊外の大谷町に移転した。

まだ機械ではない手繰りによる機織りが主流だったころ、技術向上を願う織子たちの信仰をとくに集めた。

 

(3) 萩原橋

 

あきる野から続く秋川街道と浅川の交点に架けられた橋である。

初めは1900年(明治33)、萩原製糸の創業者である萩原彦七の寄付により木造で架けられた。

 

彦七は1850年(嘉永3)に相模国愛甲郡依知村(現・神奈川県厚木市)に生まれる。

12歳で古着呉服質屋の丁稚奉公に入るが、数年後にそこを飛び出して高座群当麻村(現・相模原市)の生糸商のもとに転がり込む。

 

その後八王子の生糸商である初代・萩原彦七 に雇われ番頭となり、1872年(明治5)にその名を襲名する。

 

そして1877年(明治10)八王子ではじめての機械製糸工場の萩原製糸工場を八王子市中野上町に創業し事業規模を拡大する。

 

しかし萩原橋架橋の同年に恐慌が起こり生糸の値段が暴落し、そのわずか翌年1901年(明治34)に後に富岡製糸場も合併する片倉製糸紡績株式会社(現・片倉工業)に工場を買収される。

 

工場を失った彦七は故郷の依知村にもどり再起を図るがうまくいかず、結局1929年(昭和8)に80歳で亡くなる。

 

また横浜開港資料館には事業のピークだった明治20年代後半の萩原彦七製糸工場の生糸商標が所蔵されている。

そこには当時の八王子を含む三多摩郡が自由民権運動でキナ臭くなり東京府に移菅する以前のもののため「神奈川縣」の文字が見える。

 

(4) 多賀神社

 

機守神社と同じく八王子市内の機神を祀った神社のひとつである。

 

(5) 荒井呉服店

 

1912年(大正元年)開業のミュージシャン松任谷(荒井)由実の実家である。

先にも書いたように八王子は八王子駅周辺以外は土着な色の濃い街だ。

そんな土地に生まれ育って70年代後半~80年代にキラキラしたシティ・ポップを歌っていたユーミンは「闘っていたんだな…」としみじみ実感する。

 

(6) JR中央線八王子駅

【2日目】

(7) JR中央本線西八王子駅

 

(8) 叶谷住吉神社

 

境内に桐生の蚕影山神社より分祀された蚕影神社(本社は茨城県筑波)が祀られている。

しかし境内にふたつあった社はいずれもかなりぼろぼろで記名も無く、どれが分祠なのかは分からなかった。養蚕業の現状がまざまざと現れている。

 

(9) 八幡神社

 

大善寺の機守(はたがみ)神社や多賀神社と同じく、八王子市内の機神を祀った神社のひとつ。

養蚕業・織物産業が隆盛していた頃の八王子はそこら中で機神が祀られており、まさに「機神さまの村」だった。

それは織物業関係者にとって精神面の話だけではなく実利やメンツにも関わる重要な信仰対象だった。

 

「織り子たちは、七月七日の七夕には、大善寺詣でをし、短冊に『機が上手に織れるように』といじらしい思いを書き記した。

これは旦那さまやオカミさんにしかられないように早く上達したいという悲願と共に、直接給金を左右する切実な願いであった。

また、機場が女だけの隠蔽された集団であったので、暗黙のうちに先輩や朋輩の眼も意識される。」(※1)

 

「丹後地方では七夕を棚ばた、あるいは田畑と書き、七夕伝説の天女を田畑の神、織物の神として祀っている。」(※2)

 

現在ではかなり忘却されてしまったが、

このように往時の「桑都」八王子には物理的な生糸・織物だけではなく桐生の白滝姫、常陸の金色姫、馬鳴菩薩、弁財天など形而上的な神々も各地から集まっており、人々の間でたしかに実在していたのだ。

 

(10) 中央自動車道(元八王子町宮野前橋)

 

(11) 武蔵陵墓地(多摩御陵)

 

古墳形式の御陵がある広大な山間部の皇室墓地である。

造営時は多摩御陵と呼ばれ、昭和天皇陵が造られた後は武蔵陵墓地と改称された。

 

まず1927年(昭和2)、前年に崩御した大正天皇の多摩陵が造られる。

後に1951年(昭和26)に崩御した貞明皇后の多摩東陵、

1989年(昭和64)に崩御した昭和天皇の武蔵野陵、

2000年(平成12)に崩御した香淳皇后の武蔵野東陵が加わる。

 

(12) 東浅川仮停車場(現:陵南会館跡地)

 

1927年(昭和2)皇室専用の御召列車の停車場として開通し1960年(昭和35)廃止した、現在のJR中央本線の西八王子駅と高尾駅の間に存在した多摩御陵への参拝者のための最寄りの仮停車場だ。

廃止の2年後に八王子市に払い下げられ、さらにその翌年集会施設の陵南会館となる。

1990年(平成2)に新左翼による爆弾テロ事件により焼失した。

 

またこの仮停車場の名称は無いがその周辺は吉田初三郎《京王電車沿線名所圗繪 (東京より多摩御陵)参拝近道》(1930)という作品の中でも描かれている。

吉田が京王電気軌動(現在の京王電鉄)の依頼で、一般の参拝者のために1931年(昭和6)に開通し1945年(昭和20)に廃止された京王電軌御陵線とその周辺を描いたものだ。

 

(13) JR中央本線高尾駅

 

 

【参考・引用】

 

︎◾︎ 辺見じゅん『呪われたシルク・ロード』(1975  角川書店)(※1,  ※ 2)

 

▪︎ 畑中章宏『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』(2015  晶文社)

 

▪︎ 『八王子の産業ことはじめ』(編集:八王子市郷土資料館  2014)

 

◾︎「八王子こどもレファレンスシート 萩原彦七」(編集・発行:八王子市中央図書館  2010 ※2022改訂)

https://www.library.city.hachioji.tokyo.jp/pdf/016.pdf

 

◾︎「八王子こどもレファレンスシート 多摩御陵」(編集・発行:八王子市中央図書館 2011 ※2022 改訂)

https://www.library.city.hachioji.tokyo.jp/pdf/011.pdf

 

◾︎「写真でひもとく街のなりたち この街アーカイブス

東京都八王子 5:「多摩陵」の造営」

三井住友トラスト不動産

https://smtrc.jp/town-archives/city/hachioji/p05.html

 

◾︎『吉田初三郎 鳥瞰図集』(解説:岡田直 昭文社 2021)

 

◾︎ 原武史『歴史のダイヤグラム 鉄道に見る日本近現代史』「多摩陵への参拝、鉄道から車へ」(朝日新聞出版 2021)

(2024年8月)

Fieldwork Hachioji (八王子)

アスファルトの下の魑魅魍魎

Fieldwork 鑓水

辺見じゅんによる『呪われたシルク・ロード』という書籍がある。

大まかに言えばこれは江戸後期から明治中期に関東各地で生産され中継地である「桑都・八王子」に集まってきた生糸を海外へ輸出するための窓口である横浜港に運ぶために現れた「絹の道」に関するエピソードが記述されている。

 

当時まさに近代化しつつある時代の日本の「絹の道」を走った有形無形様々なものを、とくに東京都八王子市内の鑓水という土地に絞って1970年代前半にリサーチし記述した民俗学の本だ。

 

1888年(明治21)に現在のJR中央線である甲武鉄道が開通すると生糸の輸送路としての役割は廃れていったが、そこは開港後の横浜から流れ込んできた文明開化のきらびやかなものよりむしろドロドロした血生臭いものの方がはるかに多く駆け抜けていった道だった。

それらは例えば以下である。

 

・鑓水商人(富と出世への野心を持った男たち)

・籠のような織場に閉じ込められた八王子など養蚕地の機織り女たちが過酷な条件下で働いて紡ぎ出した生糸や織物

・キリスト教

・自由民権運動

・武相困民党(1884年(明治17)に蜂起し多摩・相模を揺るがすが、鎮圧される)

・1923年関東大震災の発生直後の混乱下で流された朝鮮人暴動のデマ(横浜→原町田→小山→田端→鑓水)

・横浜から八王子監獄署(現:八王子医療刑務所跡地)に護送される咎人

・第二次大戦の出征兵士

現場を歩いてみると実感するが鑓水は平地が少なく丘陵と河川で入り組んだ狭い谷戸地域であり、そこに養蚕関連地が密集している。

そんな土地であるにもかかわらずまるで『八つ墓村』か『犬神家の一族』のような冥い情念が、動脈硬化のように吹き溜まっているように感じる。

実際に鑓水では以下の2件の有名な殺人事件が起こっている。

・1963年、道了堂老女(浅井とし)殺人事件

・1973年、立教大学助教授(大場啓仁)一家心中、教え子(関京子)殺害事件

 

辺見じゅんも先に挙げた書籍の中で以下のように記述している。

 

「大体あそこは変よ。…あんな小っぽけな村で、何人も豪商がでるなんてふつうじゃないわ。それも満足な死に方をしたのは一人もいないじゃないの。…絹の道だかなんだか知らないけれど、呪われた道よ。恨みつらみの道だわね。」(※1)

 

まず浅井とし殺人事件の現場である道了堂跡は八王子と橋本の間に位置する大塚山山頂の寺院跡だ。

今は建物すらなく鬱蒼としたこの場所は、すでに歴史に埋もれた八王子 - 横浜間の近代日本「絹の道」や養蚕業を象徴している。

 

そんな大塚山を南に下った目と鼻の先に絹の道資料館がある。

主に4家あった鑓水生糸商人の有力家のひとつで「石垣大尽」と呼ばれた八木下家の跡地に1990年に建てられた。

二代目当主の八木下要右衛門の代で繁栄を築き三代目の敬重のころに全盛期だったが、四代目で没落した。

二代目の要右衛門は強盗に殺されたとされていたが、実は放蕩三昧の息子との金銭的な揉め事が原因だったと言う。

 

明治初期に途絶えたこの家の屋敷跡は辺見じゅんが度々取材に訪れた1970年代前半には石垣のみが残っていたという。

 

また鑓水は未成線である「南津電気鉄道」の通過予定地であり、先の絹の道資料館の近くの大栗川に架かる御殿橋付近は「鑓水停車場」予定地だった。

 

南津電気鉄道は1926年(大正15)に着工した。武蔵野方面の府中から関戸で多摩川を渡り多摩丘陵を東西に横切り津久井までを結ぶ予定の路線だった。

しかし昭和初期の生糸の暴落で資金難に陥り中止となり、その際には出資者と工事関係者との間で少なからず揉め事や暴動が起こった。

 

また大栗川と柚木街道を南側に渡り少し歩くと大塚五郎吉屋敷跡がある。

気性が激しく「狼の五郎吉」と呼ばれて訴訟に明けくれた人生を送った生糸商人・金貸しの屋敷跡地だ。

 

五郎吉は狭い山間部の鑓水で生まれたため広大な土地を所有するという野心を抱いており、1843年(天保14)より九十九里浜の新田開発に乗り出した。

 

しかしこの計画は当時海岸に居住していた「芝虫」と呼ばれる百姓身分でない被差別民を「土地を所有する本百姓にするなど許せぬ」という、現地の貧しい百姓たちからの蔑視に動機付けられた反発を受けて頓挫した。

 

その後、のちに三溪園を造る原富太郎の先代である原善三郎と生糸取引をするなど横浜進出を目論むがすでに高齢すぎており、1873年(明治6)に亡くなった。

そんな五郎吉の屋敷跡は現在では何も残っておらず緑地と化している。

 

また大塚五郎吉屋敷跡から西へ向かい多摩美術大学八王子校を越えた町田市相原の路上に蚕種石という石が安置されている。

安置と言っても社などは無くコンクリのブロックで作られた枠の中に吹き晒しで置かれているだけである。

かつて養蚕農家から「蚕の守護神」として信仰されていた蚕の繭の形の丸石だ。

八十八夜が近づくと石が緑色に変わって農家の者たちに蚕のはきたての準備の時期を知らせたという。

戦時中は土に埋もれていたが1965年に地元の柴田家に祭祀され、その後現在地へと移転されている。

 

以上に挙げたものの他にも養蚕関連地は存在するが一旦ここまでにしておく。

2010年代にすでに多摩ニュータウンとして郊外化しきっていた頃の鑓水の多摩美術大学八王子校に通っていた身としては複雑な気持ちになる。

少なくとも学生だった当時の私の眼には比較的小綺麗な地域に映っていた。

しかしせいぜい半世紀分のアスファルトをはがしたらそこには大量の虫ではなく魑魅魍魎が渦を巻いている。

 

ちなみに横浜から絹の道を通り咎人を護送した八王子医療刑務所跡地(2018年に現地から移転)である八王子駅南側至近の広大な土地は現在市民に開放された交流スペースとするため整備中だ(2026年完了予定)。

この一帯も近い将来、鑓水が多摩ニュータウンに飲み込まれたように郊外という小綺麗な蓋がされる。

 

そんな鑓水だけに限らず、日本中のそこかしこに吹き溜まった魑魅魍魎が表面的には隠蔽される潮流が生まれたのはやはり戦後からだろう。

 

「アメリカの生産力、科学、技術の力の前に、『日本的精神』とか『大和魂』とかいうものが太刀打ちできなかった」という先の敗戦への教訓から、60年代を経て大阪万博へと至る四半世紀は「科学の時代」だった。

当時は「経済成長や科学、技術の振興に対する…人々の強い希求」が「科学的に説明のつかないことを『迷信』『まやかし』として否定する…精神風土」が存在した。」(※2)

 

こうして経済成長を遂げた後から現在までの半世紀近く(80年代末からは個人的な実感を伴うが)、多くの日本人は「東洋人の顔して西洋人のふりしてる」(※Mr.children『光の射す方へ』1999)という時代の空気を徐々に無意識に内面化していったと感じる。

 

私含め、多かれ少なかれ誰もがそうだったと思う。しかし実際にはそんな時代は日本史の中では一時的で特殊な時期だったのではないか。

今ではこの70年代頃までの『八つ墓村』的ヴァナキュラーな魑魅魍魎こそが私たちの生きている場所の本来の姿だと言われた方が、正直納得がいくのだ。

 

【参考・引用】

 

▪ 辺見じゅん『呪われたシルク・ロード』(角川書店 1975)

 ※1…P.277、作者の友人の言葉

▪ 内山節『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(講談社 2007)

 ※2…P.39-41

▪ 畑中章宏『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』(晶文社 2015)

▪ 『町田の民話と伝承 第一集』(町田市教育委員会 1997)

 

▪ LIFULL HOME'S PRESS

椎名前太「八王子医療刑務所跡地に広大な集いの拠点の整備事業が進行中」

https://www.homes.co.jp/cont/press/buy/buy_01530/#hd_title_3

(2024年8月)

Fieldwork Yarimizu (鑓水)