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2023

2023

郊外のアンダーカレント、そのエッジへの遡行  Fieldwork 相模湖

1980年代前半の愛知の郊外に生まれた私にとって、戦後日本の都市周辺に急激な勢いで拡散して土地の記憶をフラットに塗りつぶした郊外は原風景であり、私なりの介入(歩行・リサーチ・絵画制作)によってその行く末の記録を残している。

 

私は相模野(現在の神奈川県中北部で相模川中流域の平野)という、

相模原市東部市街地を丸ごと含む土地で個人的に10数年を過ごしており、2023年3月にはそこで個展を開催している。

 

その際には、

 

・でいらぼっち(巨人)伝説

・鶴川〜淵野辺〜上溝間の幻の鉄道線

・国道16号線

・軍都相模原

・アニメ、映画、文学などの「聖地」

 

などの相模野という日本有数の郊外を流れるいくつもの底流を題材とした。

 

相模湖は相模野という郊外のエッジである。

エッジとはバックヤードという意味であり、

相模湖は相模野の水道というインフラを支える施設のひとつである。

風景は紛れもない山間部ではあるがそこは郊外の一部であるともいえる。

 

他所で生まれ育ち、その後10数年にわたってほとんど無自覚にそのインフラの恩恵を受けてきた私ですら、

相模ダム建設の際に中国や朝鮮半島から連行され強制労働をさせられた人々や、

ダム建設によって強制移住させられた湖底に沈んだ勝瀬部落をはじめとする住民たちとは決して無関係ではないということになる。

 

相模ダムは日本初の多目的ダムだ。相模湖はダムによって作られた人造湖である。

その相模ダム建設を含む「相模川河水統制事業」は1938年に神奈川県議会に提出された。

建前としてはダムによる発電で神奈川県下の電気料金を下げ工場を誘致し財政窮乏を救うというものや横浜市・川崎市への水道用水・工業用水の供給などだったが、その裏では日中戦争のための軍事兵器の製造工場建設のためという国家からの要請が存在した。

 

勝瀬や与瀬をはじめとする計画によってダムの底に沈む土地の住民たちは猛烈に反対したが、

結局押し通され村は湖底に沈み、住民は1942〜43年に各地への移住を余儀なくされた。

現在の神奈川県海老名市勝瀬は最も多くの住民の移住先であり「勝瀬」の地名はその時付けられた。

そのため相模湖の歴史は「軍都相模原」の歴史と地続きであると言っても過言ではない。

 

相模野の水道水を逆方向に遡ると相模川を経て相模湖につながっており、

その湖畔にひっそりと鎮座している湖銘碑や慰霊碑、そしてかつて勝瀬部落の中心であった鳳勝寺跡の石碑などのアンカーに辿り着く。

 

私は今回の個展で原風景である愛知の郊外から相模野を経て相模湖へと至る、現在までの郊外への介入の記録を提示する。

【参考・引用】

 

▪秋山峰生・三宅公士『湖底の叫び』(日本中国友好協会神奈川県連合会、1989)

▪『相模川河水統制事業史』(神奈川県、1952)

▪神奈川県歴史教育者協議会『神奈川県の戦争遺跡』(大月書店、1996)

▪神奈川県高校地理部会『かながわの川(下巻)』(神奈川新聞社、1989)

▪相模原市教育委員会教育局生涯学習部博物館『相模原市史 現代通史編』(相模原市、2011)

(2023年5月 個展「Suburban Undercurrent」ステートメント 神奈川県立相模湖交流センター アートギャラリー)

郊外のアンダーカレント、そのエッジへの遡行
小島烏水の相模の横断

小島烏水の相模野横断  Fieldwork 相模野 4

小島烏水(1873 - 1948)は明治初期の高松に生まれた。

横浜正金銀行に勤める一方、旅行家で登山家であり、文芸評論家でもあり、

江戸期の地誌や浮世絵風景画などの芸術にも明るく、自らも紀行文や風景論という形で多くの著作を残した。

柳田国男、田山花袋など当時の多くの文化人とも交流があった。

 

生まれは高松だが烏水の一家は1878(明治11)年から1927(昭和2)年まで何度か転居しながらも

横浜市西区西戸部(通称「山王山」)周辺で暮らした。

 

烏水が本格的に登山にのめり込むようになったのは明治30年代(本人20歳代後半)以降だ。

自宅の二階から「秩父、大山、富士の新雪に光輝を帯びた連山を仰いで、狂喜した」と本人の記述があるように、

少年時代から遠く関東西部の山々を日常的に目にしており、それはつまり山々に「見られていた」人でもあった。

 

明治初期の横浜で大量に流れ込んでくる西洋文化にふれながらも、

まだ人が気軽に訪れるのも難しかった時代の西方の山脈に意識を引かれ続けていたという事実は、

彼の思想に相当な影響を与えたはずだ。

 

そんな烏水は1906(明治39)年に相模野(現在の神奈川県中北部の平野)の踏査を行った。

山王山の自宅を出発し、保土ヶ谷、町田、淵野辺を経由して当麻へ向かった。

実際歩いてみるとかなりの距離だ。登山家らしく相当な健脚だったことが分かる。

 

私の絵画では「相模野」にあたる平野部である町田から当麻までを描いている。

 

国木田独歩『武蔵野』(初出1898年)を日本における郊外誕生のエポックと仮定すれば、

烏水の相模野踏査は明治後期の「郊外の果てへの旅」(小田光雄)だったと言える。

自宅から日常的に目にしていた西の山脈の麓へ徒歩で向かうという、ちょっとしたフロンティアへの旅だったのかもしれない。

その踏査の様子は『相模野』という紀行文として1907(明治40)年に発表された。

今読むと当然のものである書き手の感性を通過させた文体だ。

 

登山家らしい地理に関する経験と知識にもとづいた垂直の俯瞰的視座を持ち、

相模野を武蔵野と、さらには富士裾野や那須野(栃木県北部)と比較する。

さらに相模野は地理上で武蔵野とかなり重なるとすら指摘している。

 

また踏査行程における土地の歴史を掘り下げており、

そこから出て来た僧や武人への言及(淵野辺伊賀守義博、一遍上人、高座郡の坂東武者など)もある。

 

一方で行程の植生の描写も行う。

相模野は一大養蚕地帯でもあったため、近代日本を支えた養蚕農家による桑畑が頻出する。

生糸を運ぶ「絹の道」であった八王子・横浜間に横浜鉄道(現在のJR横浜線)が開通したのは1908年で、踏査の直前だ。

 

余談だが横浜鉄道開通以前に八王子から横浜へ鉄道で物資を運ぶ場合は、

甲武鉄道=中央線、日本鉄道=山手線、官設鉄道(国鉄)=東海道線と、鉄道国有化前のそれぞれの路線に対して運賃が必要だったため、

生糸商の原善三郎ら横浜の有力者によって直通路線の開通が構想されていた。

 

話を『相模野』にもどす。

その他に印象的な場面は、やはり国木田独歩『武蔵野』でも描写されていた、

明治時代の文化人であった烏水と地元農民たちとの微妙な話の噛み合わなさや意識のズレがあぶり出されていた点だろう(いくらか農民への侮蔑的とも取れる表現もあった)。

彼らの間には近代的自我という溝が走っていることが透けて見えてくる。

そしてなにより記憶に残ったのは時折現れる文学的表現だった。

たとえば現在では護岸工場されてかなり直線的になった相模原市と町田市の間を流れる境川を

「子供がいたずらに白墨(チョーク)で引いたような、ひょろひょろ線」と描写する。

 

町田のあるカレー屋の店主が子供の頃(1960〜70年代前半?)は現在の相模原市南区鵜野森あたりの境川はまだ護岸前で蛇行しており頻繁に氾濫していたそうだ。

当時の航空写真よりも、現在の相模原市と町田市の自治体間の境界線にその名残りがはっきりと見てとれる。

 

また淵野辺から当麻の無量光寺へと至る「何でもいいから動くものに遇いたい」と言うほどの「水に渇している」「茫々とした原」を、

「北海道辺の殖民地」と喩える。

現在は相模原ゴルフクラブを含む相模原市南区の緑地から工場地帯あたりだろう。

 

そこからさらに南へ向かえば、後に東京都心の郊外化に飲み込まれた市ヶ谷からの移転を余儀なくされた旧日本陸軍士官学校演習場となる「相武台」(1937年に昭和天皇が命名、現在のキャンプ座間)が目と鼻の先であり、

まさに「茫々とした相模原」といった様子だったろう。

 

これらの記述からは、ほんの110年程前は河川沿いなど水場の近くでないと人の気配がない、つまり生活が困難であったことがよく分かる。

 

『相模野』は短い文章だが、現在の相模野との大きな違いと少しだけ残っている共通点が見えてくる。

 

 

【参考・引用】

︎▪寺田和雄編『ふるさと町田文学散歩 ー鶴見川・境川源流紀行-』2014 茗溪社 P.162-183/※『相模野』初出1907年

 

︎︎▪小島烏水 著・近藤信行 編『山岳紀行集 日本アルプス』1992 岩波書店

 

︎︎▪近藤信行『小島烏水 上 山の風流使者伝』2012 平凡社

 

︎︎▪横浜美術館『小島烏水版画コレクションー山と文学、そして美術ー』2007 大修館書店

 

︎︎▪屋根のない博物館ホームページ「資料 小島烏水 『相模野』から 相模野台地を横断した人」

http://yanenonaihakubutukan.net/4/sagaminodaitiwooudan.html

︎︎▪今昔マップon the web

https://ktgis.net/kjmapw/index.html

︎︎▪枝久保達也「生糸が結んだ「JR横浜線」、その113年の歴史とは」DAIYAMOND online

https://diamond.jp/articles/-/283546

(2023年5)

郊外の果てへの旅と帰還(2022、夏、つくば)  Fieldwork 筑波

私は1980年代前半の愛知県の郊外に生まれ、そこを原風景としている。

郊外は戦後日本の都市周辺に急激な勢いで拡散して土地の記憶をフラットに塗りつぶしたような場所だ。

生まれた時から現在に至るまでそんな郊外の中で生活し、習性として歩き続け、眼前の風景をインプットし続けている。

 

そのため私の描く風景画は郊外という「日本的大衆消費社会の鬼子」(※1)の爛熟期から停滞期に至る記録であるといえる。

 

私は作品を制作する際には大きく二つの文脈を意識している。

まずは「都市風景画」という日本美術においては16世紀の《洛中洛外図》まで遡れる一大ジャンルであり、

次に「郊外」という日本においては明治後期頃から都市近郊に出現しだしたエリアである。

これについては1901(明治34)年発行の国木田独歩『武蔵野』を郊外出現の一つの目安としている。

 

これらを合わせたものが「都市郊外風景画」であり、この巨大な文脈は絵画だけではなく多種多様な視覚メディアによって更新され続けてきた。

先に挙げた《洛中洛外図屏風》から葛飾北斎や歌川広重らの「浮世絵」、川瀬巴水や吉田博らの「新版画」、小林清親らの「光線画」、岸田劉生や松本竣介らの近代洋画家による風景画、

または岩井俊二監督『リリイ・シュシュのすべて』やSABU監督『疾走』などの映画で映された郊外風景、

はたまた宮崎駿監督『となりのトトロ』や近藤喜文監督『耳をすませば』や新海誠監督『秒速5センチメートル』などのアニメーションの背景美術など、枚挙にいとまがない。

 

私はそんな「都市郊外風景画」を更新するような作品を描くことを制作における大きな動機の一つとしてきた。

 

そんな折につくばでの展示依頼が舞い込んだ。

縁もゆかりもない土地だが「郊外」「戦後、土地の歴史を断つように上塗りする形で作られたニュータウン」という意味では私の地元とも共通点がある。

 

つくばを訪れたのはパフォーマンスイベント当日も含めて2022年の数カ月間で10回にも満たないだろう。

しかしその間TXつくば駅を中心に南北10kmにわたる「背骨」と呼ばれるペデストリアンデッキ周辺だけでなく、

ニュータウン建設以前はつくばよりはるかに人や物が集まる場所だったであろう谷田部や土浦にも訪れてみた。

多摩ニュータウンや私の地元近くの高蔵寺ニュータウンなどはシミュラークル空間の強度の落差が比較的はっきりしており、

中心駅から少し歩くと一気に風景が「ファスト風土」化(三浦展)、「悪い場所」化(椹木野衣)するが、

つくばはかなり初期のニュータウンだけあって筑波大学内やペデ沿いは自然が人工物を喰ってしまうような存在感があり、

たとえば多摩ニュータウンの京王堀之内駅前のアントニ・ガウディ風建築のようなバブルが遠く過ぎ去った現在ではうすら寒い冗談じみた空間などではない、都市部を避けたい移住者が過ごしやすそうな場所と感じた。

その意味で郊外論の源流であるエベネザー・ハワードの「田園都市」構想(『明日の田園都市』)がかなりの面で実現しているといってもいいかもしれない。

そんなつくばという土地をまるで「まれびと」(折口信夫)のように訪ねる体験は、

生活圏として生きていると愛憎に絡めとられて相対化しづらい場であり私にとっての原風景である「郊外の底流」を読み解くためのいくつかの視点を整理する機会を与えてくれたように思う。

 

最後に現時点での私のそれらの視点を記して拙文を締めくくりたい。

 

(1) 都市郊外風景画家視点

 

おもむろにカメラを構えてみると眼前には前述した「洛中洛外図屛風」からの膨大な連なりの最も先端にあたる風景画がある。

 

(2) 社会学視点

 

郊外がいかにして誕生し現在に至るかという視点。

(参考:小田光雄『郊外の誕生と死』1997 青弓社、若林幹夫『郊外の社会学 -現代を生きる形』2007 筑摩書房)

 

(3) 聖地巡礼・文学逍遥視点

 

アニメや映画、文学の舞台となることによる場への思い入れの混じった文脈を付加する視点。

(参考:鈴木智之『郊外の記憶 文学とともに東京の縁を歩く』2021 青弓社)

 

(4) 地図的な俯瞰視点

 

人間中心視点を離れた地形や気候のスケールでの視点。

(参考:中沢新一『アースダイバー』2005 講談社、原武史『地形の思想史』2019 KADOKAWA)

 

(5) 脱人間主義の場所への開かれの視点

 

1960年代第一次郊外化以前の「日本人が狐に化かされてきた」感受性を再起動する視点。

(参考:宮台真司「『呪怨:呪いの家』評:「場所の呪い」を描くJホラーVer.2、あるいは「人間主義の非人間性=脱人間主義の人間性」

https://lp.p.pia.jp/shared/cnt-s/cnt-s-11-02_2_67eb289b-cbae-4db1-b00d-377537c335af.html )

※1 若林幹夫ほか『「郊外」と現代社会』2000 青弓社

(2023年 『archive : HAM2022』 ※「平砂アートムーヴメント2022」アーカイブブック 収録

郊外の果てへの旅と帰還(2022、夏、つくば)
相模野アンダーカレント

相模野アンダーカレント

私は1980年代前半の愛知県の郊外に生まれ、そこを原風景としている。

郊外は戦後日本の都市周辺に急激な勢いで拡散して土地の記憶をフラットに塗りつぶしたような場所だ。

生まれた時から現在に至るまでそんな郊外の中で生活し、習性として歩き続け、眼前の風景をインプットし続けている。

 

そのため私の描く風景画は郊外という「日本的大衆消費社会の鬼子」(『「郊外」と現代社会』より)の爛熟期から停滞期に至る記録であるといえる。

 

私は作品を制作する際には大きく二つの文脈を意識している。

まずは「都市風景画」という日本美術においては16世紀の《洛中洛外図》まで遡れる一大ジャンルであり、

次に「郊外」という日本においては明治後期頃から都市近郊に出現しだしたエリアである。これについては1901(明治34)年発行の国木田独歩『武蔵野』を郊外出現の一つの目安としている。

 

これらを合わせたものが「都市郊外風景画」であり、この巨大な文脈は絵画だけではなく多種多様な視覚メディアによって更新され続けてきた。

私もそんな「都市郊外風景画」に新たな1ページを加えるような作品を描くことを制作の大きな動機の一つとしている。

 

ところで豊田徹也の『アンダーカレント』という漫画がある。

個人の心の奥底に水底の泥のように堆積した本人も忘れた記憶をテーマにした傑作だ。

水の描写がアクセントとして度々現れ、人間の内側に幾層にも深く流れる水脈に読者を引きずり込むようだと感じる。

 

私は土地の記憶に対してもそれと似たようなイメージを持っている。

「アースダイバー」(中沢新一)という言葉が示すように、一見ありふれたフラットな風景である郊外の足元には何層にも幾筋にもわたって土地の記憶という地下水脈が流れている。

 

私にとって郊外を歩くことは自らの内面と土地の記憶、それぞれのアンダーカレント(底流)を重ねる行為に他ならない。

そしてその底流はまさに相模野を通過して展示会場に訪れた来訪者とも一時的に重なる。

 

この展示はそんな郊外=原風景に対する私の介入(街歩きという習性・ライフワークと言ってもいい)を、個人的に十数年を過ごした土地にあてはめるものだ。

 

そして国木田独歩の『武蔵野』に触発され1907(明治40)年に小島烏水が発表した『相模野』の中で、「山岳性と平原性と人間性との三つが鼎足している」「武蔵野より平面が小さくて断面に厚い」と記された土地にあてはめるものであり、

または戦前に旧日本軍関連の施設が多く作られた軍都としての土地に、

または相模野に点々と足跡(窪地)を残して大山に腰かけたという「でいらぼっち(巨人)」伝説が残る土地に、

または鶴川から淵野辺を経由し上溝へと至る、100年ほど前から何度も計画が立ち上がっては実現しなかった幻の鉄道線の走る土地に、

または都心より半径約30km圏を走る「日本最強の郊外道路」(柳瀬博一)である国道16号線が横切る土地に、

または絵画、アニメ、映画、文学などの「聖地」として(湘南や箱根に比べれば数は相当少ないが)描かれてきた土地にあてはめるものだ。

 

この展示はそんな相模野という土地に底流する幾つもの水脈を歩行という介入によって絵画に引き込み、《洛中洛外図》から脈々とつづく「都市郊外風景画」を更新するものである。

(2023年3月 個展「Sagamino Undercurrent - 相模野を潜行する -」ステートメント CRISPY EGG Gallery)

​相模野の巨人  Fieldwork 相模野 3

相模野に残る巨人伝説(デイラサマ、デイラボッチ、大太郎法師などと呼ばれる)について

現地を訪ねた上でできる限り多くの資料を調べているが、共通する点は以下となる。

 

▪富士山を担いで運ぶ途中で相模野に立ち寄った。

▪大山頂上の平らな部分は、でいらぼっちが相模川の水を呑むために腰掛けたもの。山の形をデイラボッチに結びつける民話は筑波山、赤城山などにも残っている。

▪富士山を縛って運ぶために藤づるを探したが、相模野中を探し回っても見つからず、悔しがって地団駄を踏んだ。

▪地団駄を踏んだ跡が沼(鹿沼・菖蒲沼・大沼・小沼)に、歩き回った足跡が「でいらくぼ」に(東林間・矢部・清新)になった

▪相模野を歩き回った際、ふんどしを引きずった跡が「ふんどし窪」になった(現在の相模原ゴルフクラブ内とその北側)。

▪藤づるを切るための鎌を研いだ場所が鎌研ぎ窪となった(現在の相模原沈殿池から南に伸びる窪地)。

▪このような巨人にちなんだ民話・伝説は全国各地に残っている。地名として残っている場合もある(例えば世田谷区代田など)。

 

近世以前の人々にとって窪地や沼や山の稜線を巨人の痕跡とみなすことはわりと当たり前の感性だったらしい。

そして相模野に点在するそれらにも巨人に関する生きた民話や伝説が人々の間で口承という形で残っていたようだ。

実際『もののけ姫』のデイダラボッチ(シシ神)も沼(お池)に住んでいた。

 

そんな相模野の窪地や沼は現在ではほとんどアスファルトで埋め立てられており、

相模原市矢部の村富神社近くには地形が平らにならされ地名すら残っていない場所もある(旧「大太久保」)。

 

柳田国男が1939(昭和14)年にデイラボッチ伝承を調べるために現在の相模原市南区東大沼に出かけたときですら、

村人たちは「まったくそういう話は聴いておらぬふう」だったそうだ(『妖怪談義』「じんだら沼記事」所収)。

 

さらに現在では物理的にアスファルトの蓋をされ、加えて宅地化によって住民の動線などの生活様式が変化したせいか、

無形のものである民話・伝説はよりいっそう忘れ去られようとしていると感じる。

 

【参考・引用】

 

▪荻坂昇『かながわの伝説散歩』(暁印書館、1998)

 

▪荻坂昇『神奈川県の民話と伝説(上)』(有峰書店新社、1975)

▪『さがみはらの地名 ー村をつないだ道・坂・川ー』(相模原市教育委員会、1990)

▪『鹿嶋さまの杜は見て来た』(発行:細谷隣、株式会社アトム、2002)

▪『相模原市民俗編』(相模原市総務局総務課市史編さん室、2010)

▪座間美都治『相模原民話伝説手 改訂増補』(1978)

▪柴田昭彦「ものがたり通信/18.ダイダラボッチの足跡」

http://www5f.biglobe.ne.jp/~tsuushin/newpage31.html

(2023年3月)

相模野の巨人
2022

2022

​戦車道路(現・尾根緑道)  Fieldwork 相模野 2

北に多摩丘陵、南に相模野と丹沢山地を臨む、

東は桜美林大学町田キャンパス裏手の相模原市下小山田から、西は八王子市鑓水まで続く全長約8kmの尾根道。

西側は八王子市と町田市の境界にもなっている。

太平洋戦争中に戦車の試走のために使われた道だ。

 

旧日本陸軍が戦車を導入しはじめたのは1937(昭和12)年以降だったが、

当初はあまり効果的に運用ができていなかったようだ。

 

しかし第二次世界大戦初期にヨーロッパを蹂躙したドイツ機甲師団の電撃作戦の影響を受け、

1942(昭和17)年、戦車道路周辺の土地を所有していた農家から半ば強制的に二束三文で土地を買収し、

翌年多摩丘陵の南端にあたる尾根に戦車の試走のための道路を敷いた。

 

試走された戦車は相模陸軍造兵廠で製造されたが、

それらの兵器(戦車・装軌牽引車・中口径砲弾弾帯など)の製造は多くの雇用を生み出し、

当時造兵廠内では1万人以上の軍人と一般人が働いていた。

昭和初期から続く不況と開戦による日米通商条約の破棄による養蚕業(相模原は「絹の道」の沿道で生糸の一大産地だった)への打撃から、

相模原の軍事施設は不況に苦しむ現地住民にとって重要な雇用先だった。

 

その従業員の通勤のために国鉄横浜線「相模原駅」が1941(昭和16)年に、

「相模仮乗降場」(現・矢部駅)が1944(昭和19)年に開設された(※Wikipediaの「矢部駅」のページには1950年開業と記載されている)。

ちなみに現在の桜美林大学学生寮(桜寮)は相模陸軍造兵廠工員の宿舎だった施設だ。

 

そんな尾根を走る戦車道路、

そして境川を挟んだ南側のJR横浜線、

またその南側の戦時中は軍事輸送路でもあった国道16号線、

さらに町田駅とキャンプ座間(旧・日本陸軍士官学校)を結ぶ、

戦中に昭和天皇が士官学校を訪れる際に使用した行幸道路といった、

それらの相模原を走る「線」。

 

一方で相模総合補給廠、

キャンプ座間、

現在は相模原市立博物館やJAXA宇宙科学研究所 相模原キャンパス、

弥栄小中学校・高校、

国立近代美術館アーカイブ施設などがある元キャンプ淵野辺(戦時中は陸軍機甲整備学校)などの、

相模原に散在する「点」。

 

現地を自らの足で歩き「点」と「線」をトレースすることで、

相模野台地のスケール感を「面」として体感する。

そこから歴史を掘り下げることで、その土地に記憶されたミルフィーユのような、

または何枚も重ねられたディスクのような「多面性」が徐々に明らかになっていく。

今回は軍都相模原という「面」(「層」と言ってもよい)にフォーカスをした。

 

やはりこの「多面性」を自分なりに積み重ねていくのが街歩きの醍醐味だろう。

 

【参考・引用】

▪『町田の歴史をさぐる』(町田の歴史をさぐる編集委員会:著、1978)

▪『町田市史 下巻』(町田市史編集委員会:編、1976)

▪『写真でひもとく街のなりたち このまちアーカイブス 神奈川県相模原 4:「軍都」として発展』(三井住友トラスト不動産)

4:「軍都」として発展した相模原 ~ 相模原 | このまちアーカイブス | 不動産購入・不動産売却なら三井住友トラスト不動産

▪内田宗治『町田と八王子の境界近くに存在 蛇行を繰り返す「戦車道路」とは何か』

https://urbanlife.tokyo/post/38231/

(2022年12月)

戦車道路(現・尾根緑道)

幻の鉄道  Fieldwork 相模野 1

淵野辺 - 上溝間の約5kmは県道57号線のすぐ裏の市街地に今は生活道路となった2本の線路の跡が残っている。

そこは度々計画が立ち上がりながら結局実現しなかった幻の鉄道路線だ。

 

一度目は1921(大正10)年、相模原・相模川方面と東京を鉄道で結ぼうという気運が高まった。

そこで相武電気鉄道という株式会社による鶴川→淵野辺→上溝→田名→愛川へと向かう路線計画が持ち上がり、

1925(大正14)年に鉄道省から認可が下りた。

 

その後昭和初期の不況や相模鉄道(現:JR相模線)との上溝駅での路線の交差で揉めるなど何度も躓きつつも、

1930(昭和5)年には淵野辺 - 上溝間の線路を引き終える。

ところが運行直前まで漕ぎ着けたものの、訴訟や債務の問題が解決できず結局1936(昭和11)年、路線敷設免許取消しとなった。

 

二度目は1940(昭和15)年、相武電鉄が上溝での交差で揉めた相模鉄道(現:JR相模線)による、

上溝→淵野辺→鶴川→稲城→府中へ至り西武鉄道多摩線と接続するという計画が立ち上がる。

しかしこれも相模鉄道の経営権を握っていた昭和産業の有力者が相次いで亡くなるなどで中止となっている。

 

三度目は1943(昭和18)年、旧日本陸軍兵器学校からの要望で当時の小田急電鉄取締役社長だった五島慶太による、

鶴川→淵野辺→上溝、さらに相武台下→厚木へと路線を繋ぐという延伸計画があった。

五島は当時「相模原新都振興会」の副会長であり、いわゆる相模原の「軍都計画」に関わっている。

これが実現していれば相模野台地から町田市中央部にかけてをまるっと包囲するような小田急の環状線ができていたわけだ。

 

当時は小田急電鉄、京浜電気鉄道(現:京急)、京王電気軌道、相模鉄道といった

東京西部の中央線以南の私鉄のほとんどが東京横浜電鉄(現:東横線)に合併されていた

「大東急」(1942〜48、戦時統制下の東京急行電鉄)の時代だった。

しかし結局この計画も戦況悪化による資材不足などで頓挫した。

 

四度目は1958(昭和33)の鶴川→矢部→星ヶ丘→田尻→田名を経由して城山へと至る小田急線延伸計画だ。

こちらは正確には淵野辺を通らず、矢部から上溝の南方面を通過する路線だ。

当初歓迎ムードだった相模原市など地元自治体も、

同年に公表された小田急側の条件(自治体の出資、免税、沿線の住宅建設要請など)を不服として計画は停滞。

1968(昭和43)年に撤回した(『相模原市史 現代通史編』P.501には1961(昭和36)年に「新線計画を事実上撤回した」と記述されている)。

 

その背景には1963(昭和38)年に持ち上がった多摩ニュータウン構想を受けて具体化してきた、

多摩丘陵方面へと向かう新線計画も存在した。

鞍替えしたように進められたこの計画は後に小田急多摩線として1975(昭和50)年に新百合ヶ丘 - 小田急多摩センター間が開業する。

 

その後1990(平成2)年の唐木田までを最後に延伸は打ち切られている。

しかし近年その小田急多摩線を相模原、上溝方面へ延伸する計画が立ち上がっており、

米軍相模総合補給厰の一部返還や公金の投入、相模原駅北口の再開発の見込み、

橋本を停車駅とするリニア中央新幹線との兼ね合いなどで、少なくとも相模原駅までは実現の可能性はあるようで、

関係者会議の調査では2033(令和15)年開業を想定している(2019年5月時点)。

 

しかし上溝までは収支採算性の課題が解決できず、

「小田急多摩線延伸・上溝駅開設推進協議会」は2022年5月28日に5年以上続いた活動を休止した。

 

以上、現在調べた限りでは(多少進路を変えつつも)この路線は四度計画が頓挫している。

 

五島慶太の小田急環状線計画がとくに顕著だが、

これらのどれかが実現していたら明らかに現在の小田急沿線駅の繁栄勢力図も変化していたはずだ。

 

鉄道路線の交差点である鶴川・淵野辺・上溝が現在の橋本・町田・相模大野くらいになっていたかもしれない。

上溝から新宿へ直通するわけだから、

現在の沿線の人口やインフラが比較的近年に京王線で新宿と結ばれた橋本ではなく上溝へ、

また町田や相模大野のいくらかが淵野辺や鶴川へ移っていた可能性がある。

 

さらに仮定に仮定を重ねて1941(昭和16)年の柿生離宮計画が実現していたら、

と考えると鶴川 - 上溝ラインの重要性は一気に跳ね上がる。

こういう俯瞰的な想像は楽しい。

 

あと資料のひとつ『鹿嶋さまの杜は見て来た』の文中で「橋本・町田・本厚木という大三角形鉄道網」(P.227-228)という記述があり、

私の作品《郊外の果てへの旅と帰還 #2(橋本 - 町田 - 海老名 デルタ)》とほぼ同じ発想が書いてあって笑ってしまった。

 

個人的に絵画のモチーフにもしたこの相模野の都市・郊外を包摂する大三角形を「相武デルタ」と勝手に名付けることにする。

 

【参考・引用】

 

▪『鹿嶋さまの杜は見て来た』(発行:細谷隣、株式会社アトム、2002)

▪『相模原市史 現代通史編』(相模原市教育委員会教育局生涯学習部博物館 編、2011)

▪森口誠之『鉄道未成線を歩く〈私鉄編〉 夢破れて消えた鉄道計画線 実地踏査』(JTB、2001)

▪『相模原経済新聞』(2021/10/27 夕刊)

 井上与夢「いま、光る都市(まち)さがみの 46 百年の計」

▪『小田急多摩線延伸に関する関係者会議 調査のまとめ』(相模原市・町田市)

▪俺の居場所「相模原市淵野辺〜上溝間の不思議な区画」

https://urban-development.jp/blog/search/fuchinobekukaku/#toc6

▪相武電鉄上溝浅間森電車庫付属資料館

相武電鉄の歴史・第3部2章/相武電鉄資料館

相武電鉄の歴史・第3部3章/相武電鉄資料館

▪相模原情報発信基『幻に終わった相模原の鉄道「相武電気鉄道」』

https://sagami.in/reki/soubu

(2022年11月)

幻の鉄道

世界という全体への開かれに近づくための絵画

私にとって内面は風景と不可分であり、

過去に眼にして内面にインプットしてきた膨大な風景をひとつに統合する可能性のあるイメージとは地図であり、

地図とは世界の記号化であり、

世界は人間だけでなく動物や昆虫や植物や非生物や自然現象などを包摂している。

 

少なくとも前近代的な社会においては人間は今より世界に開かれており、日本人は「狐に化かされてきた」(内山節)。

 

この言葉は動物や昆虫や植物や非生物や自然現象に開かれそれらに溶け合うことができる感受性を持つ者が多かったという意味だと解釈する。

そしてそれは日本人に限った話ではないだろう。

 

私はそんな感受性に漠然と憧れながら、同時に近代的社会に生まれその中で生活せざるをえないために決してその感受性に追いつけないことを理解しつつ、しかし無数の風景を埋め込むことが可能な地図という媒体を手がかりとして、それに近づこうとしている。

 

私の絵画はその過程における記録のようなものだ。

(2022年3月)

2021

2021

ATRACE -垂直の視点の面影-

 タイトルの「ATRACE」(アトレイス)とは「Atlas」(地図帳)と「Trace」(痕跡)を合わせ、「a trace」(面影)とかけた造語である。

 

地図は衣食住や言語や絵画などと同じく人類に根源的な関わりのあるメディアだ。たとえば飛行機や航空写真を知らない前近代的な生活をしている人々や、まだそれらが認知できない小さな子供も上空からの視点を把握できることから、人類にはどうやら自らが集めた地理情報を統合して上空から俯瞰する垂直の視点が備わっているようだ。

 

ところで私は戦後日本社会に急速に拡がり現在も存在する典型的な郊外に生まれ育った。

そしてそんな郊外に対して「ありふれているが故郷と似ている」という、愛憎とも郷愁とも無感動とも近いようなねじれを感じている。

その現在も続くねじれを昇華するために「Trace the Trace」という絵画シリーズを描いた。

実際に歩いた郊外の航空写真をモチーフにして、「塗り」ができない画材である色鉛筆で紙面を一歩ずつ歩くようになぞって描いたものであり、私的で内的で、消して悪い意味ではなく閉じられたシリーズだ。

 

いっぽうその歩行の際に私は郊外にひっそりと存在する見取図を収集していた。

ここでいう見取図とは、非常に狭いエリアを示した局所的なものであり、かつ風雪や経年による劣化などの自然の痕跡があり、ときにはそれが塗り直しや補修などの人為的な痕跡とせめぎ合っているものという定義だ。

そんな見取図を描いた「Atlas」という絵画シリーズを、さきの「Trace the Trace」とともに描き進めてきた。

 

話はそれるが近代以前は地図上に絵画的図像(楽園・神・悪魔・動物…)が描かれるものがよくあり、当時の人々の頭の中が科学以外の宗教観・伝聞・彼岸の概念などでないまぜになっていたであろう様子がそのイメージで伝わってくる。

またたとえば日本の江戸時代の絵図などは万人向けではなく、為政者が民を支配する目的のために描かれたものだった。

近代化によってそれらの地図が孕む混沌や閉鎖性は、科学的根拠によって固定され万人に開かれたが、地図のイメージとしての幅広さは万人が平等であることを前提とする近代化の要請により目減りしていったといえる。

 

「Atlas」のモチーフである見取図は、局所的であることと自然(+人為)による痕跡という介入によって科学的根拠による固定がほどけて、近代的地図の実用性を離れて、かといって前近代的地図に戻るわけではなく、絵画に近づいたものだと考えている。

それを絵画として描く。限りなく地図に近い絵画。

 今回の展示は2会場で行われとおり、その会場間をグーグルマップをもとにした作家自作の案内図で移動してもらうことを推奨しているが、もちろんご自身のスマホの地図アプリを使っていただいても問題ない。

私はそれらの近代的地図を用いて、

郊外という近代が生んだ風景を舞台に、

私的で内的な体験の昇華「Trace the Trace」と科学的根拠をほどく「Atlas」を経由して、

垂直の視点へと遡行する回路を開くことを目指す。

(2021年4月 個展「ATRACE - 垂直の支店の面影 -」ステートメント CRISPY EGG Gallery | CRISPY EGG Gallery 2)

2会場案内図画像

​2会場間案内図

Atlas -限りなく地図に近い絵画-

地図は世界の記号化である。

地形図・天気図・海図・住宅図などの実用的なものや、国家・宗教による支配のためのイメージ戦略など、多くの性質を内蔵した巨大なメディアだ。

また紙や塗料やネット上の画像、遡れば石や貝殻や木片などの組み合わせなど、媒体もさまざまだ。

ただ「局所的であること」と、

経年劣化や風雪に晒された「痕跡があること」(物質性)の二つの条件がそろうとき、

それは絵画に最も近づくと私は仮説を立てた。

そして世界という全体を俯瞰的かつ絵画的に思い描くためには、

自分の手の届く周辺にあり仮説の条件を満たす住宅図や都市計画図や案内図などの局所的地図、つまり見取図を避けて通れない。

 

それらの「限りなく地図に近い絵画」の蓄積は、各個独立した絵画でありながら、平行して世界という全体の像を結ぶのではないだろうか。

(2021年1月 絵画シリーズ《Atlas》 コンセプト)

Atlas

2020

2020
コンセプト図(2020年11月)

コンセプト図 (2020年11月)

2019

2019

Trace the Trace - 僕に踏まれた街と僕が踏まれた街 -

絵画シリーズ「Trace the Trace」のモチーフは私が住んだことのある、また通勤・通学等で通ったことのある土地の航空写真であり、

制作によって出た痕跡付きの紙を貼ったパネルを支持体として使い、

徒歩で特定の地域の道を覚えるように色鉛筆の線描を刻んでいく。

 

私がこのシリーズを描く理由は三つある。

まず自分の泥臭く線を重ねていく制作手法。

つぎに昔から身体的・精神的なコンディションを整えるために自宅周辺や通勤通学路などを走ったり歩きまわったりする習慣。

そしてどこの土地の風景に対しても思い入れが持てず風景を「ログ」のように感じていることだ。

 

三つ目をもっと詳細に言うなら、私は1980年代前半の地方郊外出身であり、

「近代化の果ての郊外風景」(小田光雄)を当然のものとしてインストールして育った世代であり、

そのためか郊外風景というものに「ありふれているが故郷と似ている」というねじれを抱えているということだ。

 

たとえば通っていた大学がある地域を描いているときには、

否応なく当時見た風景や考えたこと、聴いていた音楽などが思い出される。

大袈裟に言うと地図(航空写真)上に地雷が埋まっており、色鉛筆がそこをなぞると地雷が炸裂する感覚だ。

 

根拠はないが「地図」(航空写真も含む)は人類全体がゆるくつながっているデータベースのようなものにアクセスする重要なメディアのひとつに思える。

地図は神の視点だとたとえられたり、

地図上には実在するものが何ひとつ現実のとおりに表記されていないにもかかわらず、世界そのものを表していることなども関係するだろう。

そしてそれはなにより個人的な記憶を地雷のように呼び覚ます深度と、一方で世界そのものを表すという幅広さが同居している点による。

 

私はこの絵画シリーズ「Trace the Trace」を描くとき、

「人は風景から孤立した内面を持たない」(宮台真司)という言葉がいつも頭の片隅から離れない。

 

私はこの絵画制作によって、

地図と航空写真と現実の風景(ストリートビュー)を行き来するGoogle Mapsのように、

世界と内面を、

自分の手と足でもって、

接続できるのではないかと思い描いている。

(2020年7月 個展「Trace the Trace - 僕に踏まれた街と僕が踏まれた街 -」ステートメント Hideharu Fukasaku Gallery Roppongi)

Trace the Trace
下地(Trace the Trace (Hashimoto))
Trace the Trace (Hashimoto)

Trace the Trace(Hashimoto)

2019

パネル・紙・色鉛筆
colored pencil on paper, panel
29.7 × 42 cm

Surfacing from Depth

影したことや保存したことすら忘れたスマートフォンやPCの中の画像。

書いたことすら忘れた何年も前のSNSの投稿。

 

敷衍すればこれらは、日常的に起こるささいな見間違いや物忘れなどや、

たとえば真冬にしては暖かい風のない日の昼下がりの傾きかけた日差しなどの自然現象によってふと思い出す感性や記憶に近いものだ。

 

つまりこれらは記憶のビッグデータとでもいうべき深い淵に沈んでいたものであり、

ときに外部からの入力がきっかけで知覚の表面に浮上することがある。

 

私はこの現象を美術作家の制作活動に代入してみたい。

まず自分のこれまでの制作活動において、そこからこぼれ落ちたり、はみだしたり、置き忘れてきたものなど、

「淵に沈んだものたち」を再び召喚し、浮上させる。

そしてこれらを丁寧につなぎあわせることで「作品」と「作品未満のもの」の境界を可視化/無効化しようと思う。

 

この試みは自己模倣や円環構造のマッチポンプという隘路にはまるかもしれない。

しかしそもそも社会や自然環境という私たちが所属している前提は循環構造を形成しているのではないか。

ということはその中で生きる私たち人間も同じ構造を持っているはずだ。

(2019年5月 個展「Surfacing from Depth」ステートメント Hideharu Fukasaku Gallery Roppongi)

Surfacing from Depth

I Can't Remember even Forget (Forest)

カメラ付き携帯やWEBから息をするように無意識に拾い集めた画像の中には、

集めたことすら忘れたものもあります。

それらの忘れたくても思い出せない画像は脳内のデッドストックのようです。

それらは勝手に伸びる体毛のような人間の内包する「自然」の一部といえます。

 

私はそこに潜り、人間の外部の「自然」の象徴として植物の画像を引き上げました。

それらふたつの「自然」を絵画というメディアによってつなげないかを試みます。

(2019年2月 『アーツ・チャレンジ2019』出品作品ステートメント 愛知芸術文化センター)

2018

2018

「描くこと」の身体化

 

2018年5月26日から7月8日まで武蔵野市立吉祥寺美術館で行われた江上茂雄『風景日記』展について。
出品作品の一部について考えたことをメモしておく

1979〜2009年の30年間、江上は正月と台風の日以外毎日、自宅から徒歩圏内の運動公園の駐車場付近を描き続けた。

その一見何ということもない風景画のシリーズの膨大な量の内の一部が展示されていた。
 

ジョルジョ・モランディと河原温を合わせたような作品群だ。

まずは率直にヘンリー・ダーガーなどのアウトサイダー・アートを想起する。

ただ江上は健常者であり、美術大学には行っておらず、『みづゑ』『芸術新潮』『美術手帖』を通して美術業界の動向も意識していたことからアウトサイダー・アートの定義には当てはまらないだろう。

個々で見るとそれほど大したことはない、ちょっと野暮ったいとすら言える絵画だが、

数を膨大に積み上げることで作品の「構造」(または「骨格」といってもいいかも)が形成される。

これは私が自らの制作でもずっと実践してきたことだ(因みにこれは2010年代半ばから後半の公募展「岡本太郎現代芸術賞」出品作によく見られる構造)。

 

しかし江上のこれらの風景シリーズは、一時期集中して大量に制作するのではなく長期間少しずつ止めずに作り続けたことによって、

作品に彼が過ごした半生という「時間」が貼り付いている。

これによって作品が美術史の文脈という「外部」よりもむしろ、
呼吸・食事・睡眠・排泄といった身体が内包する「自然」(内部)に同期しているのではないか。


つまり江上は「描くこと」を完璧に身体化した画家だったといえる。

作品を鑑賞する際、それに用いられている素材や手法、モチーフなどの歴史的な立ち位置を解釈するのはアーティストとして必須の視点だが、
江上の「描くこと」が身体化した風景シリーズは歴史上のどこに位置するのか。

人間が定住を始め蓄財し、法を作ったのは約1万年前。
何者かがラスコーの洞窟に壁画を描いたのが約2万年前。
人間が言語を作ったのは約4万年前。


人間が呼吸・食事・睡眠・排泄を始めたのは一体いつなのか。
人類が人類でなかったころまで遡れるのではないか。

30年という気の遠くなる時間をかけて「絵を描くこと」を身体化する行為は、

それが人間にとってどのような営みなのかという根源的な問いに迫る射程の深さを備えていると思う。

http://www.musashino-culture.or.jp/a_museum/exhibitioninfo/2018/05/diarydialogue-with-landscapes.html

(2018年6月)

スクリーン的視覚から21世紀デフォルトのインターフェイス的視覚へ

 

これは東浩紀の著作『ゲンロン0 観光客の哲学』の一部に示唆されたテーマを込めた作品である。

この作品について考えたことを書き留めておく。

 

『観光客の哲学』の第6章「不気味なもの」の中で映画のスクリーンとコンピュータのインターフェイスの平面としての差異に触れている部分がある。

スクリーンにはイメージしか投影されないが、インターフェイスにはイメージ、文字(象徴)、さらにその奥のコードさえ等価に表示される。

その上でスクリーンを見る主体はイメージの背後にある「大きな物語(=大文字の他者、=象徴界)」を同時に見ており、

一方インターフェイスを見る主体は「大きな物語」を失効したポストモダンの主体であると区別されている。

 

個人的に何年も前からパソコンやスマホのアプリを切り替える時に画面の中に現れるグレーの空間が気持ち悪いと思っていた。

パソコンの画面を絵画に置き換えたら、絵画空間の中に定位置がないのではないか、と。

東浩紀はこの気持ち悪いグレーの空間に対して明快に「不気味なもの」という名称を与えている。

自分が数年間もやもや抱えていたものに、何も取りこぼすことなく、とても簡潔な言葉が貼りついたように思う。

この絵画シリーズはまだ始まったばかりだが、

少なくとも今までの自作よりコンピュータのインターフェイス越しに「不気味なもの」と対面するポストモダンの主体の視覚を表しているのではないか。

今後も発展する可能性を含む作品だと思う。

 

ところで美術大学生時代に油画科の教員が「最近の学生の絵は奥行きがない。ペラペラ。」とボヤいていたのを聞いた事がある。

しかしそれは現代人の視覚がスクリーン的視覚から21世紀デフォルトのインターフェイス的視覚にスライドしつつあると解釈できないだろうか。

仮にそう考えてみたら、環境による結果であり(若者は真っ先に影響を受ける)、

決して退化というわけではないと思う。何よりそう考えた方が面白い。

(2018年4月)

Fence (River)

Fence(River)

2018
紙・水彩・鉛筆・色鉛筆

watercolor, colored pencil, pencil on paper
42.0×29.7 cm

未分化な領域への経路としての余白

 

2018年2月18日で無事終了した個展(『舞台裏を観測する』CRISPY EGG Gallery)の会期中に多くの方と作品について話をする機会を得られました。

それをふまえて、よく指摘を受けた近年の自作にあらわれる画面の「余白」について、現時点で考えたことを書き留めておきます。

 

まず近年の自作に現れる画面の「余白」は私たちの日常生活空間と平行に存在する「場」であると仮定します。

例えば水面に飛び込んで海の中へ入ること。また古い家屋に入ったときに微妙な温度湿度の変化や独特な匂いを感じることなど。

それらの現実と地続きであり、かつ異質の「場」のことです。

そして私はこの「場」にはwebの中も含まれると考えます。

パソコンやスマホの画面という境界面を越えてwebの海で何かを知覚することは、

現実の水面を越えて現実の海に潜ることとは全く異なることです。

しかし境界を通過して別の「場」で何かを知覚するという意味では同質の経験と言えるのではないでしょうか。

 

ある「場」から別の「場」へ境界を超えるというと抽象的な話に聞こえますが、

これは例えば村上春樹の小説で繰り返し描かれるモチーフです

(『1Q84』『ねじまき鳥クロニクル』『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』など…)。

自分が当然と思っている事物は実は不確かで、それが崩れた裂け目に手を挿し入れて(境界を通過し)、

何かを取り出し、そのよくわからないものをよくわからないものとして、言語化する手前に留めて表現する。

実はこれは多くのメディアで行われていることです。

 

例えば諌山創はマンガ『進撃の巨人』で、重くシリアスなシーンの合間に唐突にギャグを挿入します。

本人はラジオ番組で「ギャグをギャグとして体裁を整えてしまうとスベった時恥ずかしいので」と謙遜していましたが(https://youtu.be/nR0puL5M5YA">https://youtu.be/nR0puL5M5YA ※18分頃から言及)、

ギャグを「ネタ」として固める手前で留めていることで、

読み手は「なんだかおかしいんだけど、これ笑っていいんだろうか…」という反応に困りつつも奇妙に心に残る印象を抱きます。

明らかにこれは大場つぐみ・小畑健『バクマン。』の「シリアスギャグ」理論とかなりの部分が共通します。

またこれは思想や哲学の分野でも注目を浴びる普遍的なテーマです。

國分功一郎の「中動態」、東浩紀の「観光客」「郵便の誤配」、宮台真司の「そもそもデタラメな世界」「『言葉の自動機械』の外」などです。

 

以上をふまえて結論として、何かを発表する作り手として表現に普遍性を獲得するためには、

人間にコントロールしきれない未分化でラディカルな領域へのアクセス経路を自分の作品にキッチリと確保しておくべきではないか、と私は近年強く思っています。

近年の自作においてそれは例えば、アプリの切り替え時にスマホの画面上のスミに見えるグレーの空間や、

地方都市という入れ替え可能な風景を無遠慮に切り取る工事現場のブルーやグレーのシートとなって表れています。

(2018年2月)

舞台裏を観測する

見落とし、言い間違い、記憶違いなどは誰にでもある現象です。睡眠や排泄のような身体が内包する自然の一部であり、私はそれらを「知覚のバグ」と呼んでいます。

それらは経済合理性においては無価値であり、さらにいえば成熟した大人として社会生活する上ではない方がよいものとされがちです。

しかし私はかつて子供でありこれから歳を重ねていきますが、子供や老人の世界は「知覚のバグ」に満ちており、それこそが人間の知覚の本質なのではないでしょうか。

 

ある作品が人間の作ったものである以上、そこには必ず舞台裏が存在します。

人間の意図というルールや制約の網の目をすりぬけて現れる、アンコントローラブルな舞台裏の要素をも含めた、複合体のような作品を作ること私は試みます。

(2018年2月 個展『舞台裏を観測する』ステートメント CRISPY EGG Gallery)

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